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置かれた場所から逃げなさい

「置かれた場所で咲きなさい」という言葉があります。

渡辺和子シスターの書かれた本のタイトルで、置かれた場所でせいいっぱい力を尽くすことこそ幸せへの道である、と私は解釈しています。

本書を読むと、著者は素晴らしい人格者であろうことがうかがえ、尊敬の念すら感じます。が、「置かれた場所で咲きなさい」の主張には、どうも違和感をおぼえるのです。

というのも、置かれた場所でのたうちまわってもがき苦しむより、転校なり転職なり離婚なりすることで、パッと開ける事例がしばしばあるためです。

いや、それは目の前の現実からの逃避に過ぎない、移った先でまた同じような悩みに出くわすだろう、との主張にも一理あります。

しかし、私は「自分をどこに置くか?」「自分はどのフィールドで戦うか?」という人生のポジショニング戦略は非常に大切と考えます。

たとえば、元ハードル選手の為末大さん。

為末さんは、陸上競技の花形である100m走から、ハードルへ転向。理由は、100m走はもう実力が頭打ちで戦えないが、ハードルなら戦えると考えたため。実際、世界陸上選手権で銅メダルを獲得しています。

仮に、「置かれた場所で咲こう」と100m走にこだわっていたら、日本人初となる世界陸上メダリストは誕生していなかったことでしょう。

一方で、生まれ育った家庭とか、義務教育の小中学校とか、会社の異動先とか、自分の力ではコントロールしがたい「置かれた場所」は存在します。ただ、多くの場合、置かれた場所から他へ移る方法は、今すぐには難しくても、中長期的にはきっとあるはずです。

日本人は、「おしん」のように置かれた場所でひたすら耐え忍ぶことが美徳とされ、称賛される傾向があります。それもひとつの生き方であり、ひとつの幸せかもしれませんが、世界は広い。

より前向きに、より主体的に、より積極的に、自分の「置き場所」を考えることで、より生きやすく、より楽しく、より幸せに生きることができるのではないでしょうか?

それでもなお、そのような考えは目の前の困難からの逃避行動に過ぎない、幸せや成功は足元にこそあるのだ、という考えもあるでしょう。その例として、「青い鳥」の寓話が挙げられます。幸せの象徴である青い鳥を散々探し回った結果、じつは自分の家にいた、灯台下暗し、という話です。

しかし私が思うに、もし主人公がずっと家にいたままだったら、青い鳥の存在に永遠に気づかなかったのではないでしょうか?苦労していろいろな場所を探し回ったからこそ、ようやく見えてくるものがあった。

自分の「置き場所」について、ああでもない、こうでもないと試行錯誤することで、結局元いた場所に戻ってくることもあるかもしれませんが、それははじめからずっと同じ場所にいたこととは、まるで意味合いが違うはずです。

ちょっと意味合いがズレるかもしれませんが、葛飾北斎は生涯93回の引越しをし、最後の引越しで、なんとはじめに住んでいた家に戻ってきたそうです。

北斎は、絵を描くこと以外何ひとつしない人で、家の中は散らかり放題。片付けや掃除なんてしたくないので、ある程度散らかると引越しを繰り返していたそうですが、最後の引越しではじめに住んでいた家に戻ってきたところ、なんと散らかったままの状態だった。

そこでうーむと思うところがあって、以後の引っ越しを取りやめたわけですが、この話とて、はじめから同じ家にずっと住んでいるのと、93回の引越しの末にはじめの家に戻るのとでは、意味合いの深さ、濃さ、重さがまるで異なります。

さあ、置かれた場所から逃げましょう!なお、行動は自己責任でお願いします(笑)

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