歴史と誇り
第2章 再考・『PLAY TOUR』
歴史と誇り
東京をテーマとしたコンセプトアルバム『ティン・パン・アレイ』を構成した全11曲が、それぞれ小さな物語を描いているように、曲単体でみても志磨の歌詞の言葉は、聴き手に小説を読んでいるかのように想像力をふくらませ、物語性やイメージで満ちている。そのため、曲単位のちいさな物語をならびかえるだけでも、新たなストーリーをつむぐことは可能である。
しかし、今回の実験では、志磨の歌詞をもっと深くまで理解するために、歌詞の文脈を無視して、歌詞を解剖していくことで見つけた、小さな言葉の意味でストーリーを組むという挑戦をした。
志磨の歌詞を単語単位まで細分化していくと、ひとつの言葉でさえ、その言葉の奥に物語や出来事が潜んでいる場合もある。志磨の歌詞のなかにある言葉のうち、歌詞のモチーフとなった作品名や、出来事や関連作品、楽曲のモデルに着目してみると、自分が今まで持っていたその曲のイメージとは、別のイメージを持つことができ、新しい物語を想像することができる。
例をあげると、『PLAY TOUR』でも演奏された、“Mary Lou” のモデルは、デュマフィスの『椿姫』であり、高級娼婦であった椿姫をモデルに書いた “Mary Lou” を劇中で演奏し、メリー(=元娼婦のジェニー)のストーリーを描いている。
しかし “Mary Lou” 発売当時は、ほとんどの聴き手が、『椿姫』がモデルであることを知らずに聴いている。同シングル3曲目に “デュマフィスの恋人”というヒントがおさめられてはいるが、デュマフィスという作家を知っているか、あるいはデュマフィスとは何か、疑問に思って調べた聴き手にしかこの意味はわからない。 “Mary Lou” は、そのモデルとその意味がわかる前と後とで、少なくとも2通りの楽曲に対してのイメージをもつことができるのだ。この歌詞を志磨は20代で書いているということがおそろしい。
このように歌詞を細分化した言葉のパーツにも、意味がこめられていて、志磨の歌詞を解剖していくと、情報量がとんでもないことになっているということがわかる。
記憶の中にある、志磨の歌詞の印象に残っている言葉や、意味がわからなくて引っかかっていた言葉、もちろん『三文オペラ』のストーリーや、MVのワンシーンなどからも、様々な要素から一部分を切り取り、着目することで、楽曲が曲単位の印象とは、まったく違う意味を持つことがわかった。その細分化したパーツをコラージュすることによって、≪PLAY LIST≫『ベイビー・ブルー&ロンリー・ボーイ』という物語を新たに創作することができた。
≪PLAY LIST≫ の制作により、発表後何年も経ち、何十回も聴いた楽曲にも、まだ気付いていない、志磨が込めた意味があることがわかった。この実験によってやっと意味が理解できたフレーズもある。
おそらく何通りもの ≪PLAY LIST≫(ストーリー)を組んだとしても、志磨が歌詞に込めたすべてに気付くまでには、まだまだ時間がかかるだろう。
志磨はドレスコーズマガジンの「洋楽特集」で以下のように語っていた。
歴史をふまえた上で、今の自分たち(=黒人)の立っている場所を歌うこと。そこに、音楽の魔法はかかるんだ。これ、この光景こそが「洋楽にあって邦楽にない」もので、音楽の最も美しい部分、つまり “誇り”だね。自分の愛してる音楽にプライドを持ってる、ってことだと思ったんだ。
(ドレスコーズマガジン2016年10月1日配信18号特集「洋楽って死語?」)
志磨はこのように語っているが、志磨の歌詞には、様々な時代や国の作品や出来事や歴史が込められており、それらは志磨の長年の研究や観察により、尊敬、あるいは風刺などの意を持って、歌になっている。志磨の楽曲には洋楽同様、またはそれ以上に、“歴史”と“誇り”がこめられているのではないだろうか。
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