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「遊び」と「祈り」

第2章 再考・『PLAY TOUR』


「遊び」と「祈り」

 

 このような志磨の楽曲の特徴から、志磨の楽曲だけで何通りもの ≪PLAY LIST≫(ストーリー)を組むことが可能であることが証明され、新しい「遊び」を発明することができた。これは志磨の楽曲が好きで、何度も聴いておぼえているドレスコーズのファンだからこそできる「遊び」であり、新しい音楽の聴き方である。
 たったひとりで志磨の楽曲をならべて、「静物」を描くように ≪PLAY LIST≫ を組む。この「遊び」をたしなむ部屋が、モランディのアトリエのように、ぼくらのたいせつな「居場所」なのである。
 社会情勢が目まぐるしく変化し、自然災害も多発した、『平凡』以後の時代の転換期において、≪PLAY LIST≫ とは、「遊び」でもあり、ぼくらが変わらないでいることへの「祈り」なのである。


結局ね、洋楽とか聴いても聴かなくてもどっちでもいいんだ。ぼくが洋楽よりいいもの作ってみんなに聴かせりゃいいだけの話よ。でもね、音楽っていうのは “時間芸術” なんだ。あらゆる意味で「時間を超える」ものなんだ。それだけはマガジン読んでるみんなに言いたくてね。
日本のポップスは、どうしても〈ユー&ミー〉ばかりを歌ってしまう。でも、他にももっと大切なことを(ジョン)レノンくんや(ジェームス)ブラウン神父は歌ってきたよ。それは「ぼくら」っていう視点ね。もしかしたらぼくが「ぼくら」って人称を歌詞によく使う理由かもしんない。
いつかの誰かがいて、今のぼくらがいる。その時系列が日本のポップスにもっと組み込まれれば、きっと音楽のよろこびも増えると思うんだ。別れた恋人のことを思って泣いたり、フェスでぽんぽこぽんぽこジャンプするだけじゃないんだよ。音楽の楽しみは。自分たちのことを誇りに思える遊びなんだ。とてもとても高尚な遊びを、ぼくらはたしなんでるんだよ。
(ドレスコーズマガジン2016年10月1日配信18号特集「洋楽って死語?」)

 

 『平凡』以後、志磨が『三文オペラ』という大きな仕事を終え、ぼくらのもとに持ち帰った「演劇」のおもしろさを見せてくれたのが、『PLAY TOUR』だった。
 『PLAY TOUR』が終わり、志磨の「演劇」のひとつめの季節は幕を下ろしたが、『PLAY TOUR』は、ぼくらに ≪PLAY LIST≫ という新しい「遊び」を遺してくれたのだ。



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