5月27日の、こと
本好き達の夢空間、一日1500円で話題の文芸書や高価な写真集など読み放題の「文喫」は、六本木交差点から徒歩一分。私はパンデミックの本をめくりながら、三杯目のアイスコーヒーを飲んでいました。
「都内もだんだん人が出てきて、また三密が心配だなぁ。え〜と、緊急事態宣言解除が一昨日の5月25日で、まだ27日……。ん? 今日って「海軍記念日」じゃないか!」
そう、さかのぼること115年前の5月27日。日露戦争の運命をかけて、日本の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊とが日本海で激突し、日本が大勝したのです。この戦いを記念して、戦前の日本では5月27日を「海軍記念日」と定め、記念式典が行われました。そして、私の小学校4年から6年までの担任を務めたK先生も、この5月27日が誕生日でした。
横須賀・三笠公園に保存中の、日露戦争で活躍した旧日本海軍の戦艦「三笠」。船の前に立っているのは、日本海海戦を指揮した司令長官・東郷平八郎の像。
(写真は「横須賀市観光情報サイト」より)
ミカンは、皮ごと食べなさい
K先生が担任になってから初めて給食の献立にミカンが付いたとき、先生はこう宣言して子供達の度肝を抜きました。先生いわく、果物は皮の下にも栄養があるのだから、皮をむいて捨ててしまうというのは大変もったいないと(もちろん強制ではなかったですが)。最初は恐る恐るミカンの皮をちぎって口に入れてみたワルガキたちですが、段々慣れると実を丸かじりするようになり、中には夏みかんとか皮の分厚い柑橘類まで、悪ノリして全部平らげるヤツも出てきましたっけ。
あと、これはPTAからかなり「学力がつかない」と文句がでましたけれども、K先生は信念として4年生から6年生まで、三年間一度も宿題なし、でした。きちんと授業中にしっかり学ぶ、そして体を動かして遊ぶ、小学校時代はそれで十分だと……。私たち勉強嫌いボーイズは、当然大喜びでしたが。
清志郎の歌詞が、ピッタリで……
朝授業が始まると、K先生は職員室へ戻らずにほとんどの時間を私たちと過ごしました。休み時間には大きな灰皿を取り出し、廊下で子供と談笑しながらタバコを一服して(今なら絶対にNGです!が)、チャイムが鳴ると教室に戻って授業を続けて……。忌野清志郎の「ぼくの好きな先生」を初めてラジオで聞いた時に、K先生も職員室が嫌い?だったかどうかは不明ですが、その頃の学校風景を懐かしく思い出したものです。(映像はYouTubeより)
K先生が生きてきた時代とは……
K先生の下の名前は「平八郎」といいました、私はそれがちょっと不思議で、あるときK先生にその理由を尋ねたことがあります。先生は8人兄弟の8番目でもないのに、なぜ平八郎という名前なのですか?と。その時K先生は、私の記憶では一瞬間をおいた後、自分の誕生日が5月27日であること、その日は日本の連合艦隊がロシアに勝った「海軍記念日」で、当時の司令長官の名前が「東郷平八郎」であったことから、それにあやかった名前が自分に付けられたのだと、淡々と話をされました。
年齢的にK先生は、先の大戦で直接に戦場へは行っていないものの、子供時代の一時期を戦争の中で送ったはずです。旧日本海軍のえらい軍人の名をもらったことで、激しい戦争中の時代、また戦後の価値観が一転した民主主義の時代に、K先生がどんな人生を過ごし、もしかしたら何らかの生きづらさを味わったのかどうか。ミカンは皮ごと……も、戦争前後の食糧難を経験してこそのお話だっかもしれません。「戦争」を本やマンガの上でしか知らない小学生には、その時は想像することすら出来ませんでしたが、もし後から伺う機会があったならと今でも思います。
フラッシュバックした、あのころ
数年前、ある出版イベントの運営をしていた時に、全く初対面の方が懇親会で酔いつぶれ、タクシーで自宅まで送ることとなりました。あちこち道に迷いながら、ようやく玄関へ消える後ろ姿を見送って、ホッとしてそばにある信号機をふと見上げると、そこにはT住宅前という看板表示が。瞬間、数十年前の記憶がドッと蘇ったのです。「ここって小学校時代に遊びに来た、K先生が住んでた団地じゃん!」
当時は4階建ての団地が所狭しと建っていたのに風景は一変し、ゆったりとした敷地に高層住宅が点在していますが、道路の幅や曲がりくねり具合は昔のままのようでした。クラスのワルガキ仲間と探検気分で押しかけたお家で、K先生はいろいろご馳走やら歓迎をしてくれたことが段々と思い出され、頬を風に当てながらしばらくあたりを歩きまわりました。星々の光がキレイな2月の夜でした。
「K先生へ……。先にそちらへ行ったヨッチャンから聞いているかもしれませんけれども、中学へ進んだ時に学力不足でちょっぴり苦労したヤツもいましたが、みんな何とか頑張って、元気にやってます。では、いずれ、また……。」