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呟きエッセイ:歩くというのは生きることの基本なのかもしれない

やっぱみんなが言ってるように、生きてるうちは歩いた方がいいんだよな。

 真っ昼間に起きてそれからだらだらと人の都合に引っ張られてただ座っていると、だんだんと具合が悪いような気がしてきて、横になる以外の選択肢を失っていくようです。本当に何もする気が起きず、感情の起伏もなく、毎日楽しく見ているドラマもその時は見たくて見ているけれども感情が動いているかといえば動いていない気がする。そんな状態です。
 ただここからえいやと無理をして外に出ると、少しずつスイッチが入っていく。特に歩き始めると脳も動き出すようで、憂鬱な気持ちがいつしか和らいでおり、あれほど横になりたかったのに縦になってしかも歩いていることにさほど違和感を感じません。何故でしょうか。これが怠惰な脳に支配されている状況ということなのでしょうか。
 ただ本当に具合が悪くて歩くこともできないような時もあります。起きた瞬間から世界に絶望していてやる気のやの字どころか生きるのいの字もなく即死にたい状況というものもあるのです。そこまででなくても体に溜まった疲労のせいかどうしても起きられない、横になったらそのままだらだらと睡眠に落ちてしまって気づいたら日が沈んでいる、なんてことも実際あるのです。その時感じている「横になりたい」気持ち、疲労感と言い換えてもいいあの感覚が、本当に疲労から来ているのか、それとも脳が楽をしようとしているだけなのかを判断するのは本当に難しいことです。実際皆どうやって感知しているんだろうか。後者の場合で外出をすると多少健康になるだけなので寧ろ良いことなのですが、前者だった場合は目も当てられません。外出先で動けなくなった時の強烈な不安と焦燥感と恐怖は、きっと感じたことのある人にしかわからない恐ろしさでしょう。救急車を呼ぶか呼ばないべきかと迷っている間に意識でも失おうものなら最悪です。手前までなら行ったことがありますね。幸い救急車を呼ぶ側になったことがありますが(それも3日のうちに2回連続で同乗したことも)呼ばれる側になったことは赤子の時以来ないようです。社会的には幸いですが、「救急車呼ばなくてもいい程度の苦しみなんでしょう?」と思われることが多いので個人的には不幸です。そうならないよう常に不安と苦痛と戦い、迷い、こうしてどっちかわからないまま日々を浪費する恐怖の中を生きていてもそれは理解されない苦しみなのです。
 損をしているなぁ、と思いました。
 入院せずとも普段から莫大な医療費を払って生きている。まぁ、そのお金も国が負担してくれているわけですが。生活費は扶養者の弛まぬ労働によって補われているわけですが。こうして私は何もできず、非生産的な文章をネット上に垂れ流すだけの存在なのですが。
 生活にも人格にも、まるで価値を感じられないのです。
 それでも未来には少しでも良くなっていることを期待して、店すらないような田舎の住宅街しかない代わり映えの一切ない町の中を歩いて行こうと今日は思いました。
 そのために歩ける靴が欲しいですね。前述の有様なので費用を捻出するのはかなり難しいけれども、歩けば何かが変わるかもしれないと淡い期待を持って、投資をしましょう。
 すごいお金持ちの人が、お金を増やしたいなら身の丈に合わない買い物をするといいと言っていましたが、その内容もよくわからないのですが、信じて歩きやすいちょっといい靴を買おうかと思いました。
 靴探し行脚をして、もしいい靴が見つかったならば、歩く中で見つけた自然と共にまたnoteを書きたいですね。
 こうして多少前向きな発言をすることができるのも、今日4745歩(ピクミンブルーム調べ)歩いたおかげなのでしょうね。

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