過去へ戻らずに過去を知る方法
今日は私の本業とも言えるべきもののお話。
私の専攻は歴史学である。実際に私にあったことのある人にはまずは驚かれる事が多い。
それは私の外見との不一致さからなのか、それとも歴史学というものの珍しさからか、はたまたようやく高校までの勉強生活を抜け出したのにまだ勉強を続けるのかという呆れからなのか。
いずれにせよこの学問を享受する人口が多いとは言い難いものだ。そんな歴史学の中で私が研究を進めているのは日本近世史、簡単に言うと江戸時代と呼ばれる頃のこと。
皆さんは江戸時代の勉強・研究と聞いて何を思い浮かべるだろうか。華やかなお江戸の町?時代劇なんかでよく見る侍達?新選組に坂本龍馬?
どれも正解であって正解では無い。
この近世史の研究に置いて名だたる偉人や文化の研究に手を出す人は少なくは無いが、意外にも皆が目を向けるのは名も無き農民達だ。そして私もその1人。
教科書やなんかで目にする事もなければ歴史の表舞台にも立つ事がない一介の百姓の生活を垣間見る事の何が面白いのか、と思う人もいるかもしれない。
それでも私はこの名も無き先祖達の研究に取り憑かれたのだ。
江戸時代と言う令和の世を生きる我々には到底知り得ない彼等の生活を覗く手段は一つ、彼等の残した痕跡から想像する事だ。
そしてその痕跡の多くは文字となり残されている。それが古文書と呼ばれるものだ。博物館やなんかで目にした事がある人も居るかもしれない。あのミミズがのたうち回ったような文字を読むところから研究が始まるのだ。江戸時代人の事を知りたければ江戸時代人が書いた文字が読めなければお話にならないと言うのは当然だった。
当然歴史学を志したから急に読めるようなものでもなくて、大学に入ったからとて長年教えてもらえるものでもない。この字を読める人間は意外と少なかったりする。私はこの雑多な文字を読むためここ何年か辞書を片手に古文書と向き合ってきたが、未だに頭を抱える日々である。
この古文書と呼ばれるものは歴史を知る上で、歴史を学ぶ者としてはそれはもう金銀財宝の如き輝きを放つように思えるが、実際の所一般の人々にはただのゴミになってしまうらしい。
江戸時代と言うととても前のように思えるが、何代か続く家だったりすると、意外にも仏壇や蔵、物置の中に眠っている事は山ほどある。
そしてその中には未だ解明されていない謎や新発見の手掛かりもまだまだあるのは確実なのだが、実際にその古い紙の束を目にして古文書だお宝だと思える人はそう多くはない。貴重な史料が山のように廃棄される現実は未熟ながらも研究をする者にとって痛ましいことだ。
そんな中でも大事に守られてきた古文書を読み解くと、そこには、実際に江戸時代その場所で生活を営んでいた人々の息遣いを感じる事ができる。160年以上前の紙から、当時の一百姓の心情までも読み取れた時は何とも言えない不思議な気分になる事もある。
このような研究は、勿論坂本龍馬を暗殺したのは誰か解明した!や徳川埋蔵金の在り処発見!なんてビッグネームの新解明に比べれば小さなもので。
それでも私は必死に自分の村で細々と生きる農民達の、身近な誰かのご先祖かもしれない名も無き1人の歴史を追いかけたいと思う。
社会人となった時この研究を生かした職に就けるかどうかは狭き門だ。甘い考えかもしれないがそれでも私には研究を手放した生活を想像できることができなかった。その想像のまま進んでいけることを願いたい。
古文書は意外と皆さんの身近なところにあるもので、ショーケースの中の遠い話ではありません。2020年を生きる皆さんが自分の手で、過去に戻る事も無く自分の知らない過去を知ることができる唯一の手がかりになります。
偉そうで申し訳ないのですが、どうか自分の周りで古文書を手にする機会があったら、先祖や昔を生きた人達への尊敬を込めて、大事に保管してあげてくださいね。
私自身、自分の向かう先を再認識するために書いたようなもので読んでくださった方々には少し読みづらかったかもしれません。ここまでスクロールしてくれた貴方には心より感謝申し上げます。
嶋
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