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ショートショート:手記

今日は何もしなかった。
多分この先私は何も残すことがないのだろう。

朝起きた時、
ただただ眠りから覚めるだけなのに、
私は、世界を否定して疑って羨んで拒絶したくなった。
アラームの音が頭を掻き乱してくれるお陰で、
漸く無意味な嫌悪を振り解いて体を起こした覚えがある。
その日の最初の感情は気持ち悪いという感情だ。
単純な話だけど、どうにもこうにもならない。
感情の話だけど、体がついていかない。
平凡な話だけど、私は鬱になったらしい。

自分が鬱だと気づくのに実に1年の時間がかかった。最初は朝起きるのが辛かっただけなのに、
今では食事を取ることも水分を取ることですら多大な労力を使う。

無気力感、という四文字の言葉で形容出来るほど、体に押しつけられる力は生易しくない。
頭には靄がかかり、五体には、ボウリング玉がぶら下がるような、いや、身体の芯に幾つもの紐がくくりつけられていて、その先で知らない誰かが引っ張っている。
その誰かは、近しい人なのか全く知らない人なのかも分からない。
もし希望が叶うならば、その紐は、家族や愛する人が握っていてほしい。
そうしたら、この無気力すら許せる気がするから。

今日の予定を頭の中に無作為に貼り付けられた付箋から探してみる。
今日は…何も無い。何もしなくていい。
そうだ、何もしなくて良くなったのだ。


昨日、仕事を辞めた。
無能な私を社会から守り続けてくれた会社に別れを告げた。
最終出勤日優しい言葉を掛けられて送り出された。
「次のとこでも頑張れよ」
「ゆっくり休みなね」
「仕事のことは気にすんな」
言葉の一つ一つが裏に軽蔑と罵倒を含んでいるような気がして、足早に職場を後にした。

そして、家で1人になった時、
泣いた。世界の全てが自分を嫌っていて、でもなお、生きるという罰を与えられたのだ。
こんな状況になっても死ぬ事を許さない自分の面の皮の厚さを呪う。
死ぬなら関係無いのに、他の人にかかる迷惑が頭を駆け巡ってしまう。
だから、泣いた。
自分を不幸と儚むことすら、
自分を不遇と宣うことすら、
自分を不能と蔑むことすら、
他人の許しを必要とする自分の存在の弱さを呪った。

こうして自分を恨み、泣き疲れて寝落ちた朝は、最低だという事を齢29にして初めて知れた。
今覚えば、何も無いことは無かったのか。

でもこの後は本当に何も無い。

天井を眺めて、昼が過ぎて、
おやつの時間もおやつを食べず、
18時を過ぎてもソファの上から離れられなかった。
20時話過ぎた頃、体が糖分を求めて震えだしだから、
3日前に冷凍しておいたご飯を解凍した。
生卵をご飯の上に落とし、醤油と旨味調味料を適当に振りかけて、胃に流し込んだ。
味などしなかったが、体が与えられた栄養を喜んで、熱が篭り、震えが止まった。
ああ、一応これも今日初めて知れたのか。
いや、知っていたけれど、体感してこなかったのか。
百聞は一見にしかず、では無いが、知識が身に染み込んだのを今この日記を付けていて気づけた。


今これを書いているのは夜10時。
もうすぐ今日が終わる。
そして、新しい朝が来る。
明日は何を知れるのだろうか。