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ショートショート「アート」

油絵具をパレットにのせる。
 キャンバスに筆を走らせる。描いているのは虎の右足だ。肌をおおう毛の、一本一本。ごわついた毛を、黄色や茶色をおりまぜて表現する。
 伸びやかなタッチで、かつ、繊細に。
 筆をおくと、画家の小田原朔太は、F四〇号のキャンバス全体を見渡した。一体の獣が、まっすぐ前を見つめ、牙をむいている絵だ。
 その獣は虎の足をもつ。鋭い爪のついた逞しい足が大地を踏んでいる。しかし、その腹まわりは狸の柔らかい茶毛が生えていて、尻尾は蛇の皮で覆われる。首から上は猿だ。賢さが鋭い眼光となって光っている。
 この幻の姿をした獣は「鵺(ぬえ)」と呼ばれる。
「うん、いいね。完成まであともう少しだ」
 朔太は三日間風呂に入らないで絵に没頭していたせいで、痒みがある白髪混じりの頭を掻きながら、細い背中を丸めて、絵に覆いかぶさった。
 山奥の古民家をリノベーションしたこのアトリエでは、畳の上にキャンパスを置いて、絵を描く方法をとっている。朔太が好んでそうしているのだ。
 しかし、正座した足は痺れ、腰が痛むのには困っている。
 描く手を止めた朔太は、腰をさすろうとして顔を上げた。
 そのとき、気配を感じた。
 開け放たれたふすま、縁側の向こう、ひまわりが咲く中庭に、鵺そのものが、座り込んで、朔太を見つめている。
「やあ、鵺さま。今日もいらっしゃったのか。作品はもうすぐ上がりますよ」
 そう朔太が声をかけると、鵺は大きな虎の足を前に踏み出し、風のような身軽さで縁側まで上がった。巨体なのに音は一切しなかった。鵺は茶色の毛をゆらしゆらし、長い首を絵の方へ伸ばした。猿の赤い鼻を油絵に触れそうなほど近づけて、しきりに匂いを嗅いでいる。
「まだ絵具が乾いてませんが、どうでしょう。あなたそっくりに描けていますか」
 キャンパスを立てて見せると、透き通った目が絵と朔太を交互に見た。
 鵺は畳の上に座り込むと、前足をぺろりと舐めた。仕草は猫のようだ。
「期待以上であるぞ。朔太」
 鵺は年寄りの婆のようにしわがれた声で話した。

 
 お前に絵を描いて欲しいと、ここを訪ねる妖は多いであろう」
「そうですね。おかげさまで二十年以上、画家を続けられております」
「この前も画展とやらをやっておったろう。街に忍び込んで、我も見に行ったぞ。懐かしい妖の姿ばかりじゃ。特に、天狗の絵が良かった。だから来たのだ。我が姿を絵に残し、多くの人間に見て欲しい」
 それきり静かになった牛鬼に、朔太は手をとめた。
「まさか、あなたのご一族も」
「そうじゃ。滅びる日は近い。我らのことを想い、恐れる人間が昔に比べてめっきり減った」
「そうですか。惜しいことだ」
 朔太は鉛筆を握る手に力を込めた。
「私にできることは絵を描くことよりほかはありません。しかし、ただ絵を描くのではない」
 朔太はまっすぐに牛鬼を見つめた。
「描くこととは生きること。生をきりとり、彩りを添えるということ。あなた方が生きた証を私が作品として世に残しましょう」
「よろしく頼む」
 牛鬼は静かに言った。
 しばらくして、朔太はデッサンを終えると、スケッチブックを見せた。
 猛々しい牛の横顔。鋭い角。筋骨隆々の体。
 かつて人々に祟りと恐れられた生き物。
 スケッチブックをしばらく見つめていた牛鬼は、金子をひとつ手渡し、「礼がてら、ひとつ進言しておくが。お前、死の匂いが漂っておるぞ」と言い置くと、入ってきたのと同じように、玄関から帰っていった。

 陽が落ちていって、古民家の周りには涼しい風が吹く。縁側に座り込んだ朔太は、崖の下に広がる海から漂う潮の香りを、胸いっぱいに吸い込んだ。
「ふう、今日もよく描いた」
 
 その時、にわかに地面が揺れ始めた。地震だろうか。大きく揺れている。屋根の瓦が、かたかたと鳴る。朔太はサンダルをつっかけて中庭に飛び出した。かなり古い家だから中にいては危ない。なるべく離れるべきだろう。
 やがて揺れが収まると、あたりが急に暗くなった。厚い雲が太陽を隠してしまったのだろうか。
 冷たい水滴がいくつも顔や手の甲にふれて、嵐か、と空を見上げた朔太は思わず声を失った。
 太陽があるはずのところに、目がふたつ。上空からとてつもなく大きくて黒い人影に、見下ろされている。
 その人影が口のようなものをぱっかりと開くと、海水が堰を切って流れ落ちてきて、そこらじゅうを濡らした。海藻や魚が屋根や地面に落ちて、ぴちぴちと跳ねる。辺りはむせかえるほど潮の匂いにつつまれた。
 朔太はすっかり頭から海水を浴び、甚平がべったりと身体にはりついた。
 大きな人影は、地響きのような低い声で言う。
「我を、絵に、描きたまえ」
 朔太は上空を見上げたまま歯を見せ、にいっと笑う。
「もちろんです!」

          (了)

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