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「ひるさがり」2000字小説

 昼さがり、スープを一さじ、すっと吸って男は「ふう」と小さな息をはいた。
 それはコンソメの風味が鼻一杯に広がる、澄んだスープだった。一さじ、一さじと口に運んでいると、なんだかもの淋しい気持ちになって、もっと欲しくなる。そんな味だった。
 男は毎日、陽が斜めにさしこむ時間に、この窓辺の席に座り、食事をとるのが日課だった。皿に手を添え、スプーンをゆっくりと動かす。大事な料理を口元まで運ぶ途中で落としてしまわぬよう、背中を丸める。そして口に入れる前にいちど匂いをかごうと、鼻で音を立てて吸い込むのだった。
 料理とは鼻腔で愉しむものである。それが男の考えだった。もちろん、すんすんと匂いを嗅いでばかりいるのは、決して褒められた食べ方でないと分かっている。しかし、そんなの知ったことじゃなかった。自分の食事くらい、好きなようにしたいのだ。男は周囲から集まる視線をもろともせずに、仰々しくまぶたを閉じて、咀嚼するのであった。
 本日のメイン、鶏肉のローストは、シェフの手によって皮がグリルで丁寧に焦がされて、野生的な肉の脂が、香草と胡椒で調和されたものだった。そう、これは見事な芸術品。
 乾いた唇をそっと開き、ものを奥へ押し込むと、男は唸った。全身が喜びに震えるようだった。ふと、店の前の通りに風が吹き、春の木々の間を通り抜けていった。男の伸びきった髪が、肩の上で揺れ、男の手の中で、スープの水面もさざめいた。男はチッ、と舌打ちをした。
 春がやってきていた。通りでは小さな子供が、親に連れられて、はしゃいで駆けていた。冬に比べて通りの人々の往来が多くなったことに男は苛立ちを感じ始めていた。特に子供はきらいだった。奴らは何もしらず、無邪気なのだ。以前、公園の片隅で昼寝をしていたこの男に小石を投げていたずらしてきたのは、ああいった無邪気で、まっすぐな目をした子供だった。
 口の中で長いこと噛み続けていたものが、ゴムのように無味に思えて、男は目を強く瞑った。美味しい香りにふたたび没頭するために、鼻を懸命にひくつかせる。しかしメインの肉料理は冷めてもう楽しめなくなってしまっていた。ならばデザートといこう。今日はクッキーだろうか、チョコレートケーキだろうか。何でもいい、食後のコーヒーと一緒に楽しもうじゃないか……。
 しかし、子供のはしゃいだ声が、自転車のベル、車のエンジン音が、匂うガソリンが、舞いあがる砂ぼこりが、男の食事を邪魔した。風が吹いて、レストランの排気ダクトから漂っていた料理の香りを消し去ってしまった。男の御馳走の夢想を最後に打ち砕いたのは、かん高い無邪気な声だった。
「ねえ、あのおじさんはなにしてるの?」
 男はうるさそうに目をあけた。母親に連れられた小さな男の子が、まっすぐにこちらを指をさしていた。好奇心と非難のおり混ざった目。その少年と母親の目に映っているのは、安いレストランの排気ダクトの下にうずくまる薄汚れた男にほかならなかった。使い古された雑巾のように惨めなその男が、縮れた髪の隙間からじっと暗い眼をして少年を見つめ返すのを母親は怖いと思って、急いで少年をつついてふたりは歩き去ってしまった。
 男は何事もなかったように、壁に向きなおって目を閉じた。右手でしっかり掴んだパンは石のように固かった。何日も前にパン屋の裏で拾ったのを毎日少しずつかじっている。左手の器には、ただの水がはられているだけだった。
 男は暗い路地裏にうずくまったまま、レストランからもくもくと出される煙の方へと首を伸ばした。温かい空気からは、油のえぐみに混じって御馳走の味がする。男は満足げに片方の頬を引きつらせると、また一口パンをかじり、のっそりとあごを動かし始めた。

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