せっかく異世界転生したんだけど秒で死にそうです。
指先に小さな痛みが走り、爪を噛んでいたことに気づいた。みると、爪と肉との間に血が滲んでいた。口の中に残る爪のかけらをスイカの種と同じ要領で飛ばした。噛みすぎるせいで僕の爪は人より随分短い。右手の人差し指は特にひどく、元の半分ほどしかない。嚙みすぎた時は数日痛みが続く。夏にやってしまうと治りも悪い。噛まないようすべての指先に絆創膏を巻いたこともある。テープを噛んだ時の苦みと、蒸れた皮膚の臭いが嫌で数回でやめた。結局、ストレスの根本を取り除かなければ意味はないと諦めている。
僕には「不幸の星の下に生まれた」という言葉が合う。貧しくても幸せでいられるのは、人格者か頭のねじが数本抜けているやつかのどちらかだ。
僕が中学生になった頃、父親はギャンブルで作った借金を返すために期間工で働くようになった。今も半年に一度しか帰ってこない。母親は、弁当の工場とクリーニング店の店番を掛け持ちしている。
僕は、高校を二年で中退した後、全国チェーンの中華料理店で働き始めた。頑張れば中卒のアルバイトからでも正社員への登用がある。正社員になると、フルで入っているアルバイトより手取りが少ないときいた。それでも僕は正社員を目指していた。
最初のうちはオーダーを通す際の略語がなかなか覚えられず苦労したが、皿洗いは手際が良いと褒められた。ホール係から調理係に変わって中華鍋を振れるようになった時は嬉しかった。しかし、一日中油にまみれていると臭いが染みつくのだろう。母親からは随分嫌がられた。
高校へ行けなくなったのも、間接的とはいえ貧しさのせいだった。
高二の夏休みが明けてから教室で窃盗事件が相次いだ。移動教室の度に誰かの何かがなくなる。ゲームだったり漫画だったり、僕には縁のない最新のものが被害に遭った。学校に余計な物をもってくるのが悪いと、横目に見ていた。ある日、体育の授業のあと、複数人の物がなくなる騒ぎが起こった。その場で持ち物検査が行われた。僕の鞄の中に財布が五つも入っていて、あまりのショックに一言も発することができなかった。否定をしなかったせいもあるが、みんな僕の家が貧しいことを知っていて、金に困ってやったのだろうと決めつけられた。担任が、大事にするのはやめようと言い出し財布はその場で持ち主に返され、警察に突き出されはしなかった。そのことで僕は無期限の停学処分となった。毎日自宅での学習内容と、どのように反省しているかの報告書を記入させられ、週に一度学校へ提出しに出かけた。僕は、停学が二週間を過ぎた頃、やってもいないことを反省するのに疲れて、母親に「働いて家にお金をいれるから学校を辞めたい」と頼んだのだ。
こんな僕が目標にできるのは、アルバイト先で正社員になることだけだった。だから、急なシフト変更にも快く応じていた。正社員になれたからといって僕の人生が好転することはない。いつか結婚ができても、僕のような子供を作るだけだろう。
「異世界に転生するしかないな」と、ため息交じりに呟いた。
僕の唯一の楽しみは、無料の漫画アプリで異世界転生物を読むことだった。とくに、転生先で『チート』な能力を手に入れて無双するものを好んだ。漫画を読んでいる間だけ爽快な気分を味わえる。アプリの本棚には百以上のタイトルがならんでいる。そのほとんどがファンタジー系だった。異世界転生物ばかりではなく、自分の人生を繰り返すタイプや、主人公が死なずにファンタジー世界へ入る異世界転移物もある。世界設定も中世ヨーロッパ風や中華風、近未来ゲーム風と様々だ。共通しているのは、主人公が強いということだ。
僕がもう少し賢く容姿が良ければ、ましな人生になっていたかもしれない。
人生は、本人の努力次第でいくらでも切り開けると言うが、僕のような人間が底辺の生活から抜け出すには、恵まれた人達の数十倍の努力が必要だ。
店長から連絡が入った。僕はいつも遅番だが、開店時から来てほしいと言われた。
今日は各月でやっている『持ち帰り餃子一人前100円DAY』だった。毎回、店の前に行列ができる。ホールに入っているパートの主婦が、子供の急な発熱で休んだらしい。僕の幼いころから母親は、僕が熱を出しても仕事を休まなかった。枕元に飲み物を並べて出かけて行った。その時は寂しかったが今ならわかる。子供の病気でいちいち休んでいたら、同僚に迷惑をかけてしまう。とはいえ、僕には時間も体力もある。店長から「頼りになる」と思われるので、逆にありがたかった。
夏には餃子が食べたくなるのだろう。いつもの半額というだけで炎天下のなか大勢が並ぶ。僕は持ち帰り餃子の受け渡しなど、レジ係の補助をすることになった。前面道路は道幅の割には交通量が多い。最近、近くで分譲マンションの建設が始まったのもあり、大型の車両も行き来している。大学にも近いため学生が自転車で通り過ぎる。時々、店の前の列を整理するようにも言われた。
店外の様子をみるよう言われて外に出た。餃子焼き器の蓋を開けた時のように空気が熱い。隣にある薬局の入り口を塞ぐ形で列が伸びていた。僕は慌てて列の後ろの方へ向かった。店の端あたりで「こちらから後ろの方は、車道側、境界ブロックに沿ってお並びください」と、決められた言葉で声をかけた。
「どうして車道寄りに並ばなきゃいけないんですか?」
数人後ろに立つ、眼鏡をかけた中年女性に言われた。僕は答えに困った。
「決まりだからです」と、目をそらした。
「どうしてそう決めたんですか? 歩道は公道ですよね」
他の客は、車道側に移動してくれた。
「とにかく、お願いします」
僕は女性に背を向けた。暑さと焦りで大量の汗をかいてしまった。速足で店内に戻った。
しばらくすると、さきほどの眼鏡の女性の番になった。何か言われるのではと身構えたが、抑揚もない声で二人前の餃子を注文した。袋を手渡した際にも何も言われなかった。僕は、あの時どう返すべきだったのかを考えてみた。何も思いつかない。
周辺企業の昼休み時間が終わり、一旦客足が落ち着いた。交代で休憩に入ることになった。まかないの天津チャーハンを受け取り、更衣室に上がった。更衣室には先にベテラン社員の柿本さんがいた。眼鏡の女性の質問にどう返せばよかったかを訊いてみた。
「薬局の迷惑になるって返せば良いんじゃないのか?」
「歩道は公道って言われたのが、意味がわからなくて」
柿本さんの目つきが鋭くなった。角刈りなのもあって違う職業の人に見える。
「屁理屈をこねるタイプね。歩道は薬局の土地じゃないって言いたかったんだろう。相手にしなくていい」
僕はいくらか心が軽くなった。今日は持ち帰り餃子の担当になっているから、休憩後も応対することになる。夜には、仕事帰りの人たちが押し寄せる。次はどう返せば良いかもわかった。
十八時を回ってすぐに、持ち帰り用の餃子が残り五十食を切った。並んでいる人たちに売り切れの可能性をアナウンスするように指示された。
列の後ろの方に向かって「まもなく完売となります。お並びいただいても買えない場合があります」と声をかけた。
「私も無理でしょうか?」
薬局の手前辺りに並ぶ人から質問があった。
「すみません。それは、わかりません」
前に並んでいる人たちがいくつ買うかによって変わると前に教えてもらった。
店内に戻ろうとしたとき「なんですか!」と若い女性の声が聞こえた。みると、年配の女性ともめていた。
「あのおばさんが割り込みをしたみたいです」
近くにいた客に声をかけられ、止めに入るしかなくなった。年配の方は、裏の団地に住んでいる人だ。よく店内でもトラブルを起こす。
「ばばあ、いい加減にしろよ」
学生服を着た通りがかりの少年が大声を出した。もみ合いが始まってしまった。
「やめてください」と、できるだけ大きな声で訴えたがなんの効果もない。年配の女性が振り回したバッグが顔面に当たりそうになった。避けた拍子にバランスを崩し数歩後ずさった。踵が足元の障害物に引っかかってそのまま後ろに倒れていく。
「危ない!」と、叫ぶ誰かの声が聞こえている。
クラクションが爆音で響いた。音の方に目を向ける。トラックがすぐ近くに見えた。途端に目の前で火花が散った。腕や頭や脇腹に激痛が走り、体が宙を舞った。
悲鳴が聞こえる。
時間がやけにゆっくり流れていく。目の前の景色はコマ送りだった。
取り留めもなく、いろいろなことを思い出していく。小学生のころ好きだった子のこと、好物の皿うどんのこと、母親の疲れた横顔、父親の酔った姿、昼間の眼鏡の女性、楽しみにしている異世界転生物の漫画の表紙絵。
異世界……。僕は、今トラックに跳ねられている。異世界に転生する時のお決まりのパターンだ。
異世界に行ける!
そう思った瞬間に、頭部に衝撃と痛みが走って僕の意識は消えた。
目を開ける前に、体のあらゆるところに痛みを感じた。声を出すこともできない。呼吸するのが精一杯だった。錆びた鉄と黴の臭いがしていた。
「§ΛΘΨΦ」
聞いたことのない響きの言葉だったけれど「立て」と言われたのがわかった。体を動かそうとした途端に激痛が走り、うめき声が漏れる。
「§ΛΘΨΦ!!」
脇腹に衝撃があった。あまりの痛みに胃液がせりあがった。口に苦味がひろがる。薄っすらと目を開けると、自分が石畳に横たわっていたのがわかった。
「ΦΨΔξ¶ζιι¨ωΞ」
ここで殺すなと言っている。男が二人いるようだ。強い痛みのせいで、顔を動かして状況を確認することもできない。呼吸のために胸が上下するだけでも叫びたくなるほどの痛みが走る。限界まで息をとめていると苦しくなってつい大きく吸い込む。肺を直に鷲掴みされたような痛みで、うめき声も出せない。
痛みの理由がわかった気がした。僕は、さっきトラックに跳ねられた。異世界に転生できずに、一命をとりとめ夢を見ているに違いない。いつまで、この痛みに耐えればいいのだろうか。それにしても痛み以外の臭いや音もやけにリアルだった。
「ご気分はいかがですか?」
話しかけてきたのは、僕を蹴った男を止めた方だ。
「皇太子殿下」
知らない言語の意味が理解できる。せっかく皇太子の設定なのに、ひどい目にあっているなんて実に僕らしい。夢の中でくらいもっと都合の良い状況でもいい。
とにかく痛かった。きっと体のいたるところの骨が折れ、全身打撲になっている。即死だったら痛い思いをせずにすんだのに、とことん不幸だ。
「苦痛に歪んでもなお美しい顔が存在するんですね」
男が楽しそうにいう。
ーー黒幕は公爵だったのか。
突然、今、皇太子が置かれている状況を理解した。
「顔は傷つけないように指示してあったんですよ。首を晒すのにもその方が喜ばれるでしょうから」
皇太子の記憶が流れ込んでくる。見たことのないはずの公爵の顔が浮かんだ。金髪に碧眼で口髭を蓄えている。
「あらゆる恥辱を与えられた末に、死なない程度に繰り返し痛めつけられ、公開処刑される。誰もが羨む美貌と権力を持って生まれたあなたの転落は、他の誰にも味わえないものですよ」
ここに至るまでに受けてきた拷問の数々がフラッシュバックする。動悸がありえないくらいはやまり、脈打つたびに全身に激痛が起こる。
皇太子の手足の指は一本も残っていなかった。男からも女からも犯され、顔以外のあらゆる場所を切られ刺され剥がされ焼かれた後、死なないように治療を施されながらこの数ヶ月監禁されていた。
「正午に、大罪人の公開処刑を行うと告知してあります。多くの民衆がすでに処刑場に集まっています。愛する民に見守られて逝けるのだから、あなたは幸せ者ですよ」
なぜここまで残酷な仕打ちをする必要がある。僕は憤っていた。皇太子の意識にはもう感情を動かす力もない。一つの体に二つの意識が混在している感覚だった。
「あなたは皇帝を殺した罪で裁かれる」
皇太子は自分の父親の死を知らなかったらしい。悲しみが溢れだした。
「皇后や皇女たちは、大切にしますからご安心を。あなたと違っていくらでも使い道があるのでね」
皇太子の記憶の中の皇后と皇女は、煌びやかなドレスを身に纏っていて僕が見たことのあるどんな女性よりも美しかった。公爵の好きなようにされてしまうのだろうか。皇太子の消えかけていた意識が憎しみで満たされていく。それでも体は動かせなかった。
「お前の本当の罪は、兄上とともに帝国の発展を妨げたことだ。何が平和だ。友好などいらない。近隣諸国を制圧してこそ真の平和は手に入るのだ」
こんな状況でも、皇太子は国民のことを憂いている。僕にはできないことだった。
「そろそろ時間だ」
強引に腕を引きあげられた。千切れそうだった。
外に控えていた二人の兵士に両脇から支えられ、地下牢から出された。足がまともに動かないから、引き摺られる。
頬に当たる空気が変わった。閉じたままの瞼を通して光を感じた。地下牢から断頭台は近いらしい。皇太子はすっかり死を受け入れている。
僕は、今のこの状況が夢なのか現実なのかわからなくなっていた。
観衆のどよめきに包まれる。土埃を含んだ空気を吸い込んで軽く咽せた。痛みだけではなく、全てがリアルだった。
皇太子はこの場所を知っている。目を開けていないのにありありと光景がわかる。罪人は、木製の台に肩を押し付けられ、斧で首を切り落とされる。少し離れて刑場をとりかこむ民衆から歓声がわきおこる。処刑執行人は、転がり落ちた首を拾い上げ高々と掲げるのだ。
うつむいたまま薄っすらと目を開けると、指のない血だらけの足の甲が見えた。真上から照らす太陽が足元に小さな影を作っている。
夢ではないと、確信した。怖くなって目をつぶる。
僕はとうとう、断頭台にたどり着いた。民衆に、皇太子の名と罪状が告げられ、怒号と悲鳴があがった。
鎖骨が折れそうなほど、台に体を押し付けられる。
ここは異世界なのだ。斧が振り下ろされる直前に、正義の騎士が僕を救い出してくれる。もしくは僕が覚醒する。魔力がほとばしって事なきを得るのだ。皇太子が二度目の人生を送るパターンもあり得る。バッドエンドにならないよう、公爵を早めに排除する術を探すのだ。このまま死んでしまうはずがない。チートな能力で無双しなければ、異世界に転生した意味がない。こんなのはあんまりだ。
死にたくない。
「やれ」
合図が聞こえた。息を止め目をきつく閉じる。
うなじに衝撃があった。刃が骨を断つ音がした。痛みをこえる何かが脳内を満たす。首が体を離れ、頭頂部から落ちた。
もう息も吸えない。頭は転がり真上を向いて止まった。
僕の意思とは関係なくまぶたが開く。
異世界の空も青かった。
<了>
嬉しいです♪