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ベートーヴェンのアトリエ (エピローグ)

 SNSに配信を告知した。
 画面にはギターの絵が表示されている。
『久しぶりすぎて、見落としかけた』と、早速コメントがはいる。
 誰も来ないかもしれないと思っていた。
『どうして無言?』
 弦をてはじいてこたえる。
『エレキなんだ』
『直接つないでる?』
 違ったけれど、かまわなかった。
 コメントが増えていく。懐かしい名前が並ぶ。
 一度、開放弦で強めに鳴らした。ノイズがひろがる。
『カッコいーー』
 マイクの音量調整も悪くないようだ。音割れしていれば、誰かがそう言ってくれる。
 どんなに苦しくても、ギターだけはけた。防音室にこもり思いつくままに爪弾きつづけた。わたしの中にあったのは、名前をつけようがない感情の渦で、ただそれを吐き出すために曲を作った。
 最初のコードを押さえる。
 ピックをつまむ指先に力を込める。
 きはじめた。
『アルペジオいいいい!』
『何の曲だ?』
『もしかしてオリジナル?』 
 最初は、ふりはじめの雨のように優しく音を重ねていく。弦の送り出す信号は、わたしの心を音に変換していく。
 一度、強く鳴らした。加速させる。
 ネックの上を、左手の指は自由に動き回る。時にははじき、時には叩く。
 薬指が、弦の上を滑り落ちていく。
 音を歪ませた。
 悲しみに似た怒りに似た激しい感情の渦。わたしはそのすべてを音に換えていった。
 吐き出しても吐き出しても、滾々こんこんと生まれる音。体を揺さぶりながら、限界へ限界へと追い込んでいく。
 指がちぎれてしまえば良いとさえ感じながら……。
 わたしは動きをとめ、ネックから手を離す。
 ピックではじいた弦にそっと親指を添える。
 どんな感情も永遠には続かない。
 疑問だけが、残されていた。
 この先は、ゆっくりとしたフレーズが続く。コメントに目を走らせた。
『うますぎるやろ、本人か?』
 本人で間違いない。ただ、あの頃のわたしは、もういない。変わってしまっても何かになれたわけでもなく、どうありたいかなどなにもわからないまま、息をしている。
 大切な人が残した願いを叶えるためなのか。
 この時にしか生みだせない曲を作るためなのか。
 こうして生きて、今、顔も知らない、本当の名前も知らない、どこにいるのかもわからない人たちと繋がっている。
 高音を響かせる。
 ヴィブラートをきかせた。
『ギターが泣いているみたいだ』
 どこかで、靖彦さんが聴いてくれている気がした。
 目を閉じる。
 桜の木の下で「美しく、ありたい」と言ったときの顔が浮かんだ。
 小刻みに震える頬を、涙が伝っていく。
 左手の指で弦の限界まで、ゆっくりと、大きく揺らした。
 最後の音をならす。
 左手を離しギターを解放した。
 どこまでも届きそうなほど、音がのびていく。
 歌は……。
 まだ、歌えない。

                            〈了〉

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紫
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