見出し画像

 僕は、君に送る言葉を探している。なぜなら最近、君が冷たくなったから。

 目覚めてすぐに、スマホの通知をみた。
 まだ、夜は明けていない。暗闇の中にスマホの画面が浮かび上がる。通知がないものを開いたところで、届いているはずはなかった。
 ベッドに入ったのは0時を少し回った頃だった。それから、目覚めるのは三度目。僕は毎夜、こんなことを繰り返している。
 待っているのは、付き合ってひと月になる彼女からの返信だった。
 本当なら、電話をかけて声を聞きたいくらいだが、僕は彼女の電話番号を知らなかった。スマホの画面を消し、もう少し眠ることにした。彼女はきっとまだ夢の中だ。返事がくるわけがないとわかっていても、目が覚めてしまうのだ。
 つぎ、目を開けた時には、彼女からの返事が届いていた。
『ごめん、寝落ちしてた』
 学生の僕とちがい、彼女は仕事中に居眠るわけにはいかない。
 メッセージが届いたのが五分ほど前。返すには早すぎる。
薄っぺらいカーテンの向こうで、世界がほんのりと色を取り戻しているのがわかる。僕はベッドを抜け出し、窓際にたった。隙間から覗こうとすると、ガラスが曇っていた。手でこする。窓から見下ろせる公園はいつもより青みがかっていた。
 返信をした後で、もう少し寝ることに決めた。講義は午後から出ればいい。
 彼女がでかけてしまう時間までに、一言でも返しておきたい。思いが溢れているのに、僕の中には、上手に表せる言葉がみあたらなかった。
僕が思っているほどに、彼女は僕を思ってくれてはいない。
 僕が、彼女のこと考えている時間の半分も、きっと、考えてくれていない。
 だって彼女は、僕より年上で、これまでにいくつかの恋を重ねてきたから。そして、僕より、かなり忙しい。
 温度差は、付き合い始めてさらにひろがった気がする。
 僕が熱くなっただけじゃない。彼女が徐々に冷たくなっている。 
『つきあっちゃう?』
『うん、そうしよう』
 僕らの関係は、こんな軽いやりとりで始まった。
 一年以上続けてきた片思いが報われたはずなのに、それから僕は、不安でたまらなくなった。『やっぱり、友達に戻ろう』と言われそうで。考えに考えた末に『疲れてるんだね。今日は夜話すのやめとこうか?』と送る。
 年下でも、ちゃんと気遣いができると思われたくて、心にもないことを書いた。『寂しいから、少しでも話したい』と言ってもらえるかもしれないと、淡い期待もあった。
 彼女の朝は忙しい。お弁当を作って、出勤の準備をして、満員電車に揺られる。返事をもらえるのは、早くてもお昼休みだ。
 僕は、また眠りについた。
 本格的に起きたのは、十一時過ぎだ。単位をとるために大学へでかけた。
 生協の近くの駐輪場に自転車を止めていると、何度か顔を合わせたことのある女子に声をかけられた。用件は、「野良猫のもらい手を探している」だった。僕は学生アパートに暮らす身だと断った。
「お話聞いてくれてありがとうございます」
 その子の笑顔にひかれてつい「バイト先の人にも訊いてみようか?」と切り出してしまった。
「いいんですか。お願いします。えっと……お名前わからなくって……すみません」
 あまりに申し訳なさそうに言うので、つい笑ってしまった。
「僕は、松下 蒼。君は?」
「中村 桜です」
 名前の通りの雰囲気だと思った。
  もらい手がみつかった時の連絡のために、中村桜と電話番号を交換した。猫の写真数枚をもらっておくことにした。野良猫と聞いていたので、みすぼらしい猫を想像していたが、茶トラの子猫だった。目は水色、鼻は淡い桜色で、とても可愛い。すぐに、もらい手が見つかる気がした。
同じ講義を受けたので、終わった後も少し話した。
 中村桜の家は、僕の住むアパートの隣にある公園の、南側に建つマンションだった。子猫は、その公園で拾ったらしい。ペット可なので、今は家で面倒をみていると言う。
「そのまま飼えないの?」と訊くと「実は、お母さんに内緒で、部屋に隠してるの」と返ってきた。
 本当は自分で飼いたいのだろう。
「可愛がってくれそうな人に、声をかけてて……」
 僕にも、そうして欲しいと言われた。
 今日は、家庭教師のバイトが入っている。中村桜の保護した猫は、多分、顔立ちがかなり良い。今夜行くのは一軒家なので、気に入れば飼ってくれるかもしれない。
 ただ、そこの生徒とは、少し前から気まずくなっていた。高校二年生で、僕の通っている大学を目指している。真面目で良い子ではあるけれど、ある時「先生、彼女いるの?」と質問され、「付き合い始めだけど、いるよ」と答えたら、泣き出された。
「派遣元にかえてもらうように言おうか?」と提案したが「それは嫌」と、さらに泣かれて、そのまま通っている。
 中村桜には、声をかけてみると言い残して、大学を後にした。
 バイトまでの間、洗濯をして、簡単な夕食を作って食べた。
 僕は、身の回りのことをこなしながらでも常に、スマホに通知が来ないかを気にしている。
 彼女はまだ何も言ってこない。昼休みがとれなかったのかもしれないと自分に言い聞かせる。もしかしたら、今日はもう返事はいらないと思っているのではと、勘ぐってしまう。
 バイト中は、スマホを眺めるわけにはいかない。
 生徒の横について、ほどよい距離を探りながら、質問に答えていく。ポケットにいれたスマホが震えた気がして手で確認すると、気のせいだった。
 一度、休憩をいれてもいい頃なので、生徒に猫の写真をみせるためにスマホを取り出した。やはり通知はなかった。
 僕は猫の写真を表示させた。
 生徒はスマホに顔をよせて、熱心に写真をみている。
「毛が、柔らかそう。可愛い」
 生徒の手の中で、僕のスマホが震えた。画面上部にメッセージが表示された。
 すぐに、彼女からだとわかり、慌てて、生徒の手からスマホを奪い取った。内容は読まずに画面を消し、ポケットにしまい込んだ。
 生徒には、読まれたはずだ。 
 猫を飼えないかと訊ける状態ではなくなった。顔をそむけられ表情は読み取れないが、シャーペンを強く握りしめている。
 僕は、自分の体調不良を理由に、一時間早く帰らせてもらうことにした。派遣元には、自分から担当変更を打診することに決めた。
 自転車を少し走らせ、コンビニの前で一度とめた。自転車からはおりずに、スマホを取り出す。
『今日は早く帰れそうだから、また後でメッセージするね』
 いつ、彼女からのメッセージが来てもいいように、僕は急いで帰った。
 彼女は帰宅が11時を回ることが多い。今、九時過ぎなので、いつもよりずいぶん長く話せる。彼女との出会いは、あるバンドがきっかけだった。
 バンドはオールスタンディングで三百人ほどしか入らない小さなハコで、定期的に活動していた。
 僕は、大学ではじめてできた友達にライブへ連れていかれてファンになった。
 そのバンドのラストライブに、僕たちは参加していたのだ。ライブの後で、興奮しながらバンドへの感謝の気持ちをSNSに投稿したら、彼女から共感のメッセージをもらった。
 それから、僕らのやりとりが始まった。 
 活動期間がそれほど長くなかったから、アルバム一枚とミニアルバムが二枚分しか、曲はなかった。それでもひとつひとつが深い。僕の一番好きな曲は『輪廻』だ。彼女も同じだった。
 解散から1年が経ってもまだ、多くのファンがつながりを持ったままで、復活を望んでいた。
 僕と彼女のやりとりには、曲のフレーズがよく織り交ぜられる。
 彼女とは感性が近い。そう、強く感じている。
 彼女が気に入ったと言って投稿する何気ない写真にも、いつも共感できる。僕がそのことを伝えると、彼女も喜んでくれる。同じ物を良いと思っても、ポイントが違うことはよくある。しかし、僕と彼女は、同じ箇所をみていることが多かった。
 好きにならないはずがなかった。 
 会話を読み返せば、僕だけの思い込みではないと信じられる。それでも、明らかに、頻度は減っている。ひとえに、彼女からの返事が遅いからだ。
 飽きられたのだろうか。やりとり自体は、一年前からとそう変わらない。
 ただ、こんな不安も話し始めれば、消えてなくなる。
 学生アパートの下に自転車を駐めてすぐに、彼女からのメッセージが届いた。金属の階段を二段ずつとばして駆け上がる。音が響いたがかまわなかった。
 ボディバッグから鍵を取り出した時に、焦りすぎて落としてしまった。すぐに拾い中へ入った。靴を乱暴に脱いだせいで、片方が廊下に入ってきた。蹴り出して部屋にかけこんだ。
 バッグを置いただけで、そのままベッドに寝転がった。
『今日は、もうあがれた! バイト終わった?』
『お疲れ様。僕も、ちょうど帰ってきた』
 彼女はまだ、電車の中だと言った。
 家に帰ってすぐに相手をしてくれるわけではない。
 食事は、まだかもしれない。こんな日はゆったりと湯船につかり日頃の疲れを癒やしたいかもしれない。お酒を飲みたいかもしれない。
 僕とは、どのくらい話したいだろうか。
 大げさではなく、四六時中、僕は、彼女のことだけを考えている。
 だけど、彼女はそんなことは知らない。僕は、できる限り、悟られないように気をつけているのだから。
 ベッドに寝そべり真っ黒なスマホの画面をみつめる。通知がくれば、少し離れていても聞こえるよう最大音量にもしている。
 彼女の言葉をすぐに読めるように。
 ずっと何も言ってこないので、ちゃんと、家にたどり着いたのか心配になる。
 何度も何度も、時間を確認していた。ベッドに寝転がったまま、時には仰向けになり、時には丸くなり、彼女からの連絡を待ちつつづけた。
 我慢できずに『もしかして、寝ちゃった?』と、こちらからメッセージを送った。
 何も反応がないまま0時を回った。
 何か起こったんじゃないかと心配になる。
 1時近くになって彼女から『ごめんね。今日は帰ってからゴタゴタしてて。疲れたから寝るね』とメッセージがきた。
 安心と引き換えに、やるせなさに潰されそうになる。
 どんなに楽しみにしていたか。どんなに心配したか。彼女には想像がつかないのかもしれない。
 明らかに、僕がおかしい。頭ではわかっているのだ。わかっていても、どうにもならなかった。
 考えれば、彼女が、微妙な距離を取り始めたのはあの日からだ。
 解散したバンドのメンバーの一人が、別のバンドのライブにサポートで参加するとわかって、誘った。
 それまで、メッセージのやりとりしかなかったので、彼女が僕をみつけられるように、学生証の顔写真をスマホで撮って送った。
『真面目そう』
 写真をみて、彼女はそう言った。 
 彼女は、ライブではいつもと違う化粧をして、服装も派手になる。普段の写真を送ってもわからないと言った。
 僕は顔を知らないまで、ライブの当日を迎えた。
 朝からひどく落ち着かなかったのを覚えている。開場時間の30分前に、ライブハウスの前で待ち合わせていた。待っていれば、彼女から声をかけてもらえる段取りだった。
 僕の方は、大学へ行くのと大して変わらない姿だ。みつけてもらえるはずだった。
 でも、彼女とは会えなかった。
 昼過ぎに『ごめん、熱がでちゃって。頑張れば行けるかもと思ってたけど、あがってきて』とメッセージが来た。
『それは、仕方ないよ。お大事に』
 楽しみにしていた反動でひどく落ち込み、僕もライブへは行かなかった。
 その夜、彼女に『楽しかった』と嘘をついた。
『私も行きたかった』と返ってきたけれど、それ以降、お互いにそのライブについて触れることはなかった。
 そして、特定の話題をはぐらかされるようになったのだ。
 それでも、彼女と話していたかった。たわいないことでいい。彼女が仕事中にふと耳にした音楽の話でも、書店で気になった本についてでも、話せるのならそれでいい。
 焦って関係が壊れてしまう方が嫌だった。
 今夜はもう、メッセージはこない。明日は午前中から講義に出なければならないから、着替えもせずに、そのまま眠りについた。
 翌朝、気分が滅入ったまま大学へ行った。
「松下君!」
 駐輪場で名前を呼ばれた。中村桜だった。声がやけに明るい。
「良かった。探さなきゃと思ってたの」
「なんか、用だった?」
 中村桜は嬉しそうに頷いた。
「実は、昨日の猫、うちで飼うことになったの」
「良かったね」
「うん、松下君にはやく言わないといけないと思って」
「メッセージくれたら良かったのに」
 中村桜は、目を見開いて手の平で口元を隠した。
「そうだった」
 可愛いと思った。
「名前は決めたの?」
「りんねにした」
 輪廻……
「鈴の音で、りんねって、キラキラネームかな?」
 僕は思わず笑った。猫なら少々変わった読み方でも困らない。 
「松下君って、甘い物好き?」
 唐突に聞かれた。「普通に好きかな」と答える。
「それじゃあ、お礼に、今度パンケーキをごちそうしたいの。都合の良い日を教えて」
 お礼をされるほどのことはしていない。それに、女の子と二人ででかけるのは、裏切りになりはしないか。
 中村桜はスマートフォンを取り出して、パンケーキの写真を見せてくれた。分厚いパンケーキが三段重ねになっていて、上にアイスクリームが載っている。見覚えがあった。
 彼女が一度、同じパンケーキの写真を投稿していた。
「どこなの?」
「名前は忘れたの……フランス語っぽい響きなんだけどね」
 場所を話してくれたけれど、よくわからなかった。
「行けばわかるよ?」
 確かにそうだ。彼女が食べたことのあるパンケーキを僕も食べてみたい。
「わかった。僕は、月・水・金はバイトがあるんだ」
「じゃあ、今日は?」
 夕方、正門の近くにある棟の、休憩室で待ち合わせることになった。 
 意外に、大学から近かった。実際食べてみるとパンケーキは、思っていた以上に甘かった。
 中村桜はよく笑う。思いついたことを次々楽しそうに話す。話題は、幼い頃の思い出が中心だった。僕は相槌を打つくらいだったが、聞いているだけで楽しかった。
 最後に、中村桜に謝られた。
「松下君ってお父さんに似てるから、いろんなことを話したくなって」
 中村桜の父親は、彼女が生まれる少し前に事故で亡くなったそうで、写真でしかみたことがないと言う。向けられる好意に抵抗感がなかったのはそういうことだったのかと納得した。
「僕で良かったら、いつでも話を聞くよ」
 中村桜が嬉しそうに笑った。
 僕は『父親の気持ち』が少しわかった気がした。
 中村桜は表情が豊かで、みていて飽きない。近所なので一緒に帰り、家の前の公園で別れた。
 一人部屋に戻ると途端に、昨日のことが気になり始める。今日は、きっと帰りも遅い。少しは話せるだろうか。お腹がふくれていて、夕飯を作る気もおきない。ウダウダとスマホゲームをしているうちに眠ってしまった。
 手に持ったスマホが震えて目を覚ます。確認すると、中村桜からだった。送られてきたのは子猫の写真だ。首に、赤いリボンが巻かれている。まだ小さく愛らしい姿に癒やされる。
 少し、中村桜とやりとりをした。文からも素直さが滲み出ている。言葉だけだとしても、人の本質は伝わるものだ。
 中村桜には『そろそろ寝る』と伝えて、彼女からのメッセージを待った。
 23時を過ぎ、やっと通知が来た。
『疲れたー。昨日は本当にごめんね。今日は、疲れすぎてるから早めに寝るね。明日は、飲み会だから遅くなっちゃうし。次は、土曜日、目が覚めたらメッセするね。おやすみ』
『お疲れ様。わかった。おやすみ』
 そう返すしかない文面だった。明日はもう、何も送ってこないつもりだ。僕は、深いため息をついた。
 金曜は、バイトが入っていた。朝から今日一日が存在しなくてもいいような気で過ごした。バイトの後、少しだけ中村桜と話した。明日の予定を聞かれ、用事が入っていると答えた。彼女が起きたら連絡をくれるからだ。
 そろそろ寝ようとしていると通知が来た。彼女からだった。
『青君』
 SNSでのアカウント名がBLUEBLUEだからそう呼ばれている。
『もう、今日はメッセージくれないかと思ってた』
『酔っちゃってwwww』
 確かに酔っていそうだ。会話がなりたっていない。
『青君に会いたいって思っちゃった』
 嬉しかった。文字をじっとみつめる。
『僕も会いたい』
 断られるのが怖くて、なかなか言い出せずにいた。
 やっと、会えると思った。だけど、次に返ってきた言葉は『ごめんね』だった。
 謝られた理由を探っている僕の言葉を待たずに、彼女は続けた。
『私は、青君のことものすごく好きだけど、青君はちがうと思うの』
 意味がわからない。あまり表に出さないように気をつけていたせいかもしれない。今、思いのすべてをさらけ出そうか。どんな言葉を綴れば伝わるだろうか。
『どうしてそう思うの?』
 結局こんな言葉しか書けない。
『私にはわかるの。青君は、会えば私を嫌になる』
 僕はなんと言い返せばいいのかわからず黙っていた。
『会ったこともないのに付き合っているとか、はたからみたらふざけていると思われるかもしれないけど、私は真剣だった。青君のことすごく好きだったし、仕事が辛いときでも、青君の存在が支えだった』
 過去形が続く。胸騒ぎしかしなかった。
『私はこのままの関係を続けていきたい。だけど、青君は違うでしょう?』
 会わずに、文字だけの付き合いを続けていく。それは嫌だった。僕は、彼女の顔を知りたいし、声も聞いてみたい。
 ちゃんと会いたい。いつか、触れたい。
『僕は、違う』
 今は、誤魔化すべきではないと思った。
『こんなに泣いているのに文字は震えたりしないでしょう。やっぱり文字で伝えられることは、ほんの少し。でもね、私は、この形だから、心から青君に恋をした。でも、もう、無理だっていうのも、わかってるの』
 きっと別れを切り出される。
『会えなくていいから』
 終わるのは何よりも嫌だった。
『今まで、ありがとう。青君のこと忘れない』
 僕が『嫌だ』と打ち込む前に『バイバイ』と送られてきた。
 そして、彼女はアカウントを削除してしまった。
  僕はスマホの画面を呆然とみていた。SNSで繋がっていただけだった。最寄り駅が同じことは知っているが、僕は、彼女の指先や、持ち物しか見たことがないのだ。みつけられるはずがない。
 知っているのは、彼女の語彙や会話に表れる『思考』。そうだ。僕たちはほぼ純粋な『思考』の触れあいで惹かれ合った。
 思考のやりとりで成り立った関係を、僕が、壊そうとしたから、彼女は消えてしまった。
 いつ、眠ったのかはわからない。目覚めると、ひどく息苦しく、体が重かった。明らかに発熱していた。這うようにしてトイレへ行った。かろうじて水道水を補給し、また横になる。意識は、途切れ途切れで、何時なのかもわからないまま転がっていた。
 スマホに通知が来ていてついタップした。中村桜からだった。
『元気?』
 どうして、聞かれるのか不思議になる。
『熱出して寝込んでる』
 すぐに返事が来た。
『なんだか、松下君が気になって。大丈夫? 薬とか飲んだ?』
 常備薬はない。近所なので、中村桜が届けてくれると言う。僕は弱っていたせいで、甘えてしまった。 
 中村桜はすぐに来た。おかゆまで持ってきてくれた。ちょうど母親が二日酔いで体調を崩しているため作ったと言う。
 僕はベッドに座っているだけですべて中村桜がしてくれるので助かる。食べ物を口にすると少し楽になった。もらった薬も飲んだ。
「おでこ冷やすのもあるの」
 前髪をあげておくように言われた。
 僕の顔をのぞき込みながら、貼る位置をさぐっている。体が近い。甘い香りがした。額に冷たいシートが触れた。僕はたまらずに、中村桜の体に手を伸ばした。引き寄せると、簡単にバランスを崩してもたれかかってきた。
 なんて柔らかいのだろう。
 中村桜の鼓動がはやい。僕は目をつぶってそのリズムを聞いていた。
 思考をこえた何かが僕を動かす。ふと、中村桜が『彼女』だったらいいのにと思う。
 彼女は知っていたのだろう。
 僕の中にある、この抗えない欲望の存在を。
 僕の思いの正体を。


                                                  〈了〉

嬉しいです♪