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ベートーヴェンのアトリエ (一)

あらすじ

 コンビニでバイトをしている大学生佐々原ささはらりつは、バイト先にいつも買い物に来るサラリーマンにほのかな思いを寄せていた。気むずかしそうな見た目から、律はその人にベートーヴェンさんとあだ名をつけていた。ところがここ数ヶ月、姿をみかけない。バイトを辞めようかと思っていた矢先に、久しぶりにベートーヴェンさんが買い物に来た。しばらく見ない間に雰囲気が随分変わっている。その日のバイト帰りに表で声をかけられ、絵のモデルを頼まれる。
 ベートーヴェンさんの名前は人見ひとみ靖彦やすひこといった。
 描くことと歌うこと、表現者二人が共鳴し、ひとつの物語となる。

ベートーヴェンのアトリエ 

 二〇一六年が明けてからひと月と経たないうちに、わたしは二十歳の誕生日を迎えた。
 十九歳から二十歳になったとしても日常が大きく変わるわけはなく、朝にはいつも通りバイト先のコンビニへ行った。シフトは早朝六時から九時までの三時間で、週三日か四日入っている。大学の講義の有無に関係なく働けるよう、この時間帯を選んだけれど、冬になった途端に、早起きがつらくなった。早朝シフトは人気がなく人手不足だから辞めると言い出せずにいる。日に日に寒さが増すにつれ、辞めたい気持ちが高まっていく。
――ベートーヴェンさんが来てくれれば、頑張れるのに。
 誕生日にわざわざバイトを入れたのは、会いたいお客さんがいるからだった。そのお客さんはいつでも気難しそうに眉根を寄せ、軽くウェーブのかかった長めの髪を少し暴れるようにアレンジしていたから、ひそかに『ベートーヴェンさん』とあだ名をつけていた。多分、わたしより十ほど年上でいつもスーツを着ていた。整った顔をして背も高いから、目をひく。早朝バイトを始めたものの、五時に起きるのは大変だった。ベートーヴェンさんが出勤途中で買い物に寄ってくれるから、なんとか続けてこられたのだ。それなのに最近なぜか会えていない。以前はよく、土曜日にも出勤途中に寄ってくれていた。誕生日にはきっと良いことが起こると信じていたのに、ベートーヴェンさんは今日も来なかった。
 わたしは軽く落ちこみ、バイトが終わったあと、土曜日で講義がないのに大学へ向かった。
 自転車で県道を走りながら、ベートーヴェンさんのことを考えていた。見かけなくなって二ヶ月近い。市内には、大きな企業の支社が結構ある。ベートーヴェンさんは仕事ができそうな雰囲気を醸し出していたから、きっと転勤がある企業に勤めている。今頃は、また次の都市でどこかのコンビニに毎朝立ち寄っているのかもしれない。
 空は厚い雲で覆われていた。冷たい空気を吸い込むと鼻がツンと痛くなる。大学までの自転車で二十分近い道のりの半分ほどでくじけそうになっていた。わたしは首をすくめて、顎のあたりまでマフラーに隠した。
 大学で一番仲の良い美佐子は日付が変わると同時にメッセージをくれた。
『誕生日おめでとう。ワンツースリーの日だね。ササが産まれてきてくれたことに大感謝! 今日はベートーヴェンさんに会えると良いね』
 まだ辺りは暗い。もちろん嬉しかったけれど、わたしはメッセージだけでは物足りなかった。美沙子は海外留学の資金づくりのために、休みの日はびっしりバイトを入れていて、会えそうにない。だから、構内でたまに会話をする誰かと出くわせば、「今日、実は二十歳の誕生日なんだ」「えー! おめでとう」といった感じのやりとりができるのではないかと期待した。
 考えてみれば、寒い季節に用もなく大学に来るのは、サークル活動がある人か、暇を持て余している人のどちらかだ。
 レンガ敷きの歩道で自転車を押して歩く。寒い季節にいつまでも外で過ごす人がいるわけもなく広場に設置してあるベンチに人影はない。
 駐輪場に点々と自転車が置いてある。この中にわたしの知り合いがいる可能性は低かった。わたしは葉の落ちた大きな銀杏を見上げてため息をついた。諦めきれずに敷地内を歩き回ってみたけれど、話したことのある相手は見つからなかった。
 たいして親しくもない誰かにでも祝って欲しくなったのは、無意識のうちに、二十歳の誕生日がそれなりに特別だと感じていたからかもしれない。
 わたしは、大学から家に帰るまでの間で、ふと目に留まった美容院に入り髪を切った。
 背中の真ん中あたりまであった髪を、肩にかかる程度にしてもらった。前髪を作ったせいで幼くなったのは失敗だったが、昨日までとは違う自分にはなれた。
 離れて暮らす母親から、今日くらいはメッセージが来るとふんでいたけれど、特になにもないまま夜になった。
 夕食後に、近所のケーキ屋で買ってきたショートケーキを食べて、一人で誕生会気分を味わった。その後で、ギターを取り出した。それから、パソコンを立ち上げた。
 ブックマークから配信サイトをクリックして画面を表示させる。上から順に、必要事項を記入していく。タイトルは『誕生日配信』にした。 
 素人が生配信をできるサービスを知ったのは大学に入ってからだ。それまでは誰に聞かせるわけでもなく、ただ、一人で練習をしていた。初めて人に聴いてもらった時は、緊張しすぎてほとんど内容を覚えていなかった。あとで、おそるおそるコメントを確認すると、演奏を褒められていた。嬉しくて、ギターの練習に精を出すようになった。週に二、三回ほど不定期でギター練習の配信を続け、途中から弾き語り形式に変えた。それから、グッとリスナーが増えた。一年経った今では、多い時には数百人が聴きにきてくれる。
 わたしはSNSで、配信開始のアナウンスをした。
 キーボードで『間もなく配信はじめます。』と入力すると、配信画面の中央に文字が表示された。続々、リスナーが入室してくる。
『お誕生日なの?』とコメントが書き込まれた。わたしはマイクのミュートを解除して答えようとした。でも答える前に『ハピバ!』と書き込まれた。
『おめでとう!』『良き日だ』『お祝いだ~』と、コメント欄がお祝いの言葉で埋め尽くされている。
 わたしは、マイクのミュートを解除し、ギターを構えた。自分のために『ハッピーバースデイトゥユー』のメロディを奏でる。
 コメント欄に、みんなが歌詞を書き込んでくれる。弾き終わると、『88888888888888』と、一斉に拍手がおこった。
 リスナーからは『りずみん』とアカウント名で呼ばれてはいるが、紛れもなくわたしへのメッセージだった。

       ☆☆☆

 多分、一日の最低気温は、夜明けの直前に観測される。今は二月の初旬だからなおさら寒い。
 まだ辺りは暗いバイト先のコンビニへと向かう途中、頬を、冷たい空気がさしてくる。痛む頬を手袋の手のひらで覆い隠す。モールの肌触りが心地よかった。
 まだ起きている人も少なく、立ち並ぶ住宅の窓にほとんど灯りは点っていない。街灯に照らされた息が真っ白で、ため息を吐くとさらに伸びていく。
 時間に余裕はあっても、住宅街の細い道を小走りでいく。静かすぎて足音が大げさに聞こえる。
 突きあたりを曲がって少し坂道をあがって、大通りに出た。バイト先のコンビニは、強い光を放っている。昼になれば、周りに溶け込み目立たなくなるというのに、夜だけ自己主張をしたがる。まるで、配信をするときのわたしみたいだ。
 信号待ちをしながら、仕事の段取りを考える。肉まんの解凍を始めて、届いたお弁当類を棚に並べる。おでんの準備もしなくてはいけない。今日の相方は誰だろう。昨日シフト表をみるのを忘れていた。
「いらっしゃいませ。ありがとうございます。またお越しくださいませ」
 小さな声で言ってみる。どのお客様にもそう声をかけるが、本当にまた来てほしいのはベートーヴェンさんだけだ。誕生日の後も一度もみかけていない。名前も知らなければ、声も思い出せない。知っているのは、決まって買っていくタバコの銘柄とガムの種類だけだった。
 信号がかわり、四車線分の横断歩道を小走りで渡る。コンビニに着いた。
 夜勤の人がレジの前にいた。黒縁眼鏡をかけた無愛想な大学生だ。会釈をしてからスタッフルームに入る。
 七時過ぎまでは品出しと準備作業が続き、その後、通勤途中の人が寄るため、忙しくなる。お弁当類は消費期限の三時間前から、商品の引き上げをする。棚をチェックして、買い物かごの中に次々と入れていく。今日は売れ残りが多く、すぐにいっぱいになった。スーパーなら、値引きシールを貼って売りさばくところもある。コンビニでは基本全て廃棄処分にする。ルール上、従業員が持ち帰ることもできない。お客さんの少ない時をみて、鍵付きの大型コンテナに捨てに行く。おにぎりもお弁当も、まだ食べられるのにと思いながら、捨てる。そのたびに、辞めたくなるのだ。
 欲しいものができたから、早朝のバイトはやめて、少し割のいい夜のバイトにかえようかと思い始めていた。よく大学の講義で一緒になる子が「平気だよ」と言うのが聞こえた。時間給が高すぎる店は「エッチなサービスを要求されちゃうよ」とも言っていた。
 レジのピークは過ぎた。あと三十分もすれば上がる時間だ。外に置いてある、ソフトクリーム型の看板の電源を落としに行く。
 店内に戻り雑誌の乱れを直す。イヤらしい雑誌のコーナーには、この時間に決まって眼鏡をかけたおじさんがいる。
 店に来る人はだいたい同じで、毎日ほとんど変化がない。そろそろ潮時だと思う。
 少し列ができたのでレジに入った。名札の裏のバーコードをレジに読み込ませ、プレートをどける。「お次でお待ちの方どうぞ」と言って顔をあげた。
 わたしは、前に立っている人をみて目を見開いた。心拍数があがる。
 スーツ姿ではなく、キャップをかぶり、グレーのダウンジャケットにジーンズというラフな感じで、印象が、数ヶ月前とは全く違う。キャップからわずかに覗く髪がずいぶん短い。それでも、ベートーヴェンさんだった
 レジのカウンターにガムが五つ置かれていた。手に取りスキャンし、以前のように、ベートーヴェンさんがタバコの棚に視線を移すのを待っていた。
 ベートーヴェンさんは、レジの液晶に目をやり、小銭入れからお金を出した。
「タバコはいいんですか?」
 つい、訊いてしまった。目が合う。ベートーヴェンさんは目を大きく開けたあと、細めた。
「タバコはやめました」
 つい、「そうですか」と笑顔で返した。
 ほんのひと言ふた言でも、会話できたことが嬉しかった。低くて柔らかく響く、ものすごく好きな声だ。よく来ていたころは、すぐに銘柄をおぼえたから、タバコの棚に目をむけた時点で取りにいった。そのせいで声を聞けなくなった。いつも不機嫌そうにしていて目も合わせてくれなかったのに、今日は笑顔までみせてくれた。
 髪が短くなっていて少し残念だ。それでも素敵だった。私服もかっこいい。
 久しぶりに会えたのも手伝って、他の人にはみせないような笑顔で接客してしまった。
「ありがとうございます。またお越しくださいませ」
 店を出て行く背中に声をかけながら、また会うことができるだろうかと、少し寂しくなった。

 バイトが終わり、着替えて店を出た。
「ささはらさん」
 店の前で男の人から名前を呼ばれ、声の方に顔を向けるとベートーヴェンさんが立っていた。わたしは驚いて、背筋を伸ばした。
「驚かせてごめん。早速なんだけど」と言って、ベートーヴェンさんは店の前に貼り出されている求人ポスターを指さした。
「君、時給九百九十円なんだね」
 咄嗟に、なんと返したらいいのかわからなかった。わたしはしばらく、ベートーヴェンさんのグレーのダウンジャケットを見ながら、立ち尽くしていた。
 顔を上げると目が合った。ベートーヴェンさんは、ふっと目を細めて、わたしの目の前に手のひらを出した。大きな手に驚いて、身を引く。
「今の時給の五倍出すから、絵のモデルになってくれない?」
 わたしは動けずに、ベートーヴェンさんの手をみていた。突然、目の前のものが手から顔にかわった。息をのみこむ。
「僕は、ひとみやすひこ」
 突然、名乗られた。ベートーヴェンさんの名字がひとみだなんて、あまり似合わない。もっと硬い名字をイメージしていた。
「君はささはら何?」
 レジで応対したときに名札をみたのだろう。名字だけは書いてある。
「り、りつです」
 漢字を訊かれ「旋律のりつ」と返した。
 これ以上、勤めているコンビニの前で、男の人と立ち話をするのもよくない。雑誌コーナーで立ち読みをしながら、常連さんがこちらをちらちらみていた。
「お待ちしていますので、またお越しくださいね」
 はやく離れたかった。頭を下げて、立ち去ろうとすると、腕をつかまれた。
「さっきのこたえ、まだ聞いてないよ」
 どの質問に対するこたえなのか咄嗟にわからず、首をかしげた。
「君は大学生?」
 答える前にまた別の質問をされた。なかなか話が終わりそうもない。わたしは困って「そうです……」と小声で返した。
「講義の時間と睡眠時間以外全部買うから、絵のモデルになって」
 モデルの話は、自分ではもう断ったつもりになっていた。
「わたし、無理です」
 時給が高すぎる。あやしいバイトだとわかった。
 わたしは思わずうつむいた。憧れていた人に久しぶりで会えて喜んだのもつかの間、気分は急降下だ。朝に出勤していくから普通の企業に勤めていると思い込んだけれど、違ったらしい。
 とにかく店を離れようと思ったとき、講義の始まる時間を質問された。二月に入ったのでもう講義はなかったが、大学で美佐子と会う約束があった。昼からだと答えると、ひとみさんは、笑顔でわたしの手をとった。
「じゃあ、どこかでゆっくり話そうか」
 握られた手を引いてみたけれど、放してくれない。
「あの、困ります。本当にそういうお店は無理ですから」
「喫茶店に入ろうと思ったんだけど、公園は寒いから、うちに来る?」
 話がかみ合っていない。このまま家に連れて行かれるのは本当に困る。
「き、喫茶店で結構です」
「じゃあ行こうか」
 大通りを北へ向かって歩き始める。国道は緩い坂道になっていて、ひとみさんの早足について行くのが大変だった。がっちりと手を握られている。ひとみさんが「ねえ、いくつ?」と、言って振り向いた。
「二十歳です」
 ひとみさんは、常に眉根を寄せていたイメージだったのに、今日はずっと笑顔だ。
「二十歳か。いいときだね。君の貴重な時間をもらうんだから、もう少し出そうか、時給?」
「それはお断りします。そういう経験ないので無理です」
「経験なんて必要ないよ。君はじっとしていればいいんだからさ」
 自分でも耳まで赤くなったのがわかった。
「あっ大丈夫、服は着ておいてくれていいから」
「それでも無理です」
「まあいいや、とにかくお茶でも飲もう」
 ひとみさんの笑顔の背景が澄んだ青空で、自分が引き込まれそうになっている世界のことも一瞬忘れ、素敵だなと思ってしまった。
 少し歩いて、最近できたばかりのカフェに入った。梁がむき出しで、山小屋風の作りになっている。テーブルも椅子も無垢材で統一されている。明るく優しい雰囲気だ。
 ウエイトレスが水を運んできた。コーヒーを頼んだら、この時間はトーストが無料でつくと言われた。
「本当にいいんですか?」と聞き返してしまった。
「はいサービスとなっております」
 軽く馬鹿にしたような笑顔とともに答えてくれる。恥ずかしくなってうつむいた。
「つくんだったら、二人分つけといて」
 ひとみさんは冷たい声でそう返した。
「スクランブルエッグとボイル」
「先に言った方でいい、二人とも」
 きつい口調に驚く。ウエイトレスは何かを言いかけたけれど顔を少し引きつらせながら「かしこまりました」と言って、すぐに立ち去った。ひとみさんはわたしのほうに手を伸ばして、机を指先でたたいた。
「あんな接客態度で、彼女は君より時給が高い」
「時給の話好きですね」
「時給の話が好きなんじゃないよ。僕は時間を大切にしたいって思ってるから」
 時給の話と、時間を大切にすることとの関係がわからず、首をかしげる。
「時間給って、自分の時間を切り売りしてもらうでしょう。君たちは別に自分の能力を売ってるんじゃないよ。誰でもできるとまでは言わないけれど、専門職じゃないんだからさ。君は、二十歳の学生で、時間はいくらでもあると思っているんだろうね。だから、若くて自由で、そういう本当に貴重な時間を、破格値で売っている」
 ひとみさんの言うことは正論に聞こえた。だからと言って、説得される訳にはいかない。
「変なお店では働けません」
 ひとみさんは、みなれた気むずかしい顔になった。眉間に深いしわが刻まれる。
「変なお店で働けなんて、言ってないよね」
「じゃなきゃ、その時給おかしいです」
 ひとみさんは目を丸くした。
「ああ、それでか。だけど最初に絵のモデルにって言ったよね」
 絵のモデルの相場は知らないけれど、一時間に五千円近いのはやはり高いと思う。
「値段って、どうやって決まるか知ってる?」
「価値でしょう」
「それなら、価値は何で決まる?」
 わたしは、答えられなかった。
「需要と供給のバランスだったり、いろいろだけどさ。値段イコール価値でもないしね。お金に換算できる価値の方が少ないけど、お金はわかりやすいよね。特に土地なんかはさ、どうしても欲しいと思っている人が二人いたら、どんどん値がつり上がるんだよ。僕は、君の時間をその金額を出してでも買いたいって思ったから、提示した。君が足りないって言うならもっと出してもいいよ」
 誤解されたくなくて、強めに否定した。ひとみさんがまじめな顔になった。
 なぜバイトをしているのかを問われた。
 生活費も、十分な仕送りをしてもらっている。バイトを始めたのは、留学資金を自分で貯めている美佐子を見習ってだった。ただ、わたしは留学したいわけでもなかった。
「欲しいものがあるからですけど……」
 実際はなんとなくはじめて、ひとみさんに会いたいから続けていただけだ。
 欲しいものを訊かれ、「ぼ、防音室です。組み立て式の……」と答えた。夜遅くに、音量を気にせず配信ができそうだと思ったからだ。
 ひとみさんが身を乗り出して、顔をのぞき込んできた。
「面白いものが欲しいんだね。どうして欲しいの?」
 防音室は、トイレの個室程度の広さで、値段は二、三十万ほどだった。頑張れば買えると思っていただけで、お金が貯まったとしても、今住んでいるワンルームマンションに置けるだけのスペースはない。単なる妄想だった。
「それ、買ってあげるから僕の絵のモデルになって」
「困ります」と、激しく頭を横に振った。ひとみさんはわたしを見ながらため息をついた後、顔を横に向けた。何かを考え込んでいる。そうしているうちに、ウエイトレスが、モーニングセットを運んできた。「お待たせしました」と事務的に告げ、大きなマグカップに入ったコーヒーをテーブルに置いた。トーストとスクランブルエッグは、小ぶりな籐かごに盛り付けてある。
「ありがとう」
 ひとみさんは、冷たい声でいう。
「温かいうちに食べよう」
 こちらを向くと人がかわったように優しい声になった。
 厚切りのトーストは柔らかくて、サービスでついたにしては量があった。ひとみさんがわたしのことをみているから、居心地が悪くて仕方ない。うつむき加減でもくもくと食べた。
 食べ終わると話しかけられた。
「最初から順序だてて考えてみようか」
 ゆっくりと頷いた。
「君は欲しいものがあってバイトをしている。僕は君の絵を描きたいからモデルを頼んでいる。モデルになれば、君は今より多くのお金が手に入る。僕は君の絵が描ける。お互い、利益があるよね?」
 否定はできなかった。
「もしかして、僕の部屋で二人きりになるから警戒してたりする?」
 特に意識はしていなかったけれど、言われてみればそういう状況になる。うろたえて、うつむいた。
「それなら心配はいらないよ。全然」
 理由は言われなかった。顔をあげると、優しく笑いかけられた。わたしが子供っぽいから対象じゃないと言いたいのかもしれない。
「これでも、うんって言わないんだ」
 ひとみさんは口をへの字にまげる。
「まあいいや。それじゃあ、デメリットに目を向けてみる?」
 断ったらどうなるかを考えた。
 今日ここでモデルの話を断れば、またしばらく会えないかもしれない。やっと名前がわかっただけのこんな状態で、何も決められない。もう少し、ひとみさんがどんな人なのか、知りたかった。
「あの……ひとみさんは、おいくつなんですか?」
 見た目は、二十代後半くらいだ。
「気になる?」
 頷く。
「君の一.七五倍ほど生きてるけど」
 頭の中で計算を試みる。
「数字弱い? 三十五だよ」
 ひとみさんが微笑む。思っていたより年上だった。
 うつむいて、マグカップのコーヒーを飲んだ。すっかり冷めている。香りはほとんど感じられず舌に苦みだけが残った。何かを話さないとと思い、質問をした。
「今日はお休みなんですか? いつもスーツを着ていましたよね」
「仕事は辞めたよ。二ヶ月前くらいかな……」
 思いもよらない答えが返ってきたので、つい、ひとみさんをじっとみてしまった。
「お金のことなら心配ないよ。君が今のコンビニで一日八時間、年間二百五十日働いて、百二十年かけて稼ぐくらいはあるから」
 わたしは計算をあきらめた。結構な金額のような気はする。
「ひとみさんは何のお仕事していたんですか?」
「それも気になる?」
 頷く。
「株屋だったんだけどね」
「かぶや?」
「証券マンね」
「はあ、わかりました」
 スーツを着ていた頃のひとみさんはいつも不機嫌そうだったから、きっと大変な仕事なのだろう。
「去年、親が相次いで亡くなってさ。兄弟もいないから一人で相続して、お金を使う気がないから株やFXで運用しようと思って預けたらものすごく増えちゃってさ。せっかくだから使おうと思って会社を辞めたの。仕事をしてたら、忙しくて使う暇がないからね。減ってきたらまた働くつもり。はやく使っちゃわないと、再就職がどんどん厳しくなるんだよね」
「老後までとっておかないんですか?」
 わたしの母親はいつも老後の心配をしている。
 ひとみさんは、頬杖をついた。
「老後があるかなんて、わかんないでしょう。生きているうちに人生は愉しまないと」
 わたしは首をかしげた。
「僕の両親、老後らしい老後がなかったからね」
 ひとみさんが、片方の眉をあげて冗談のように言ったけれど、笑えなかった。ご両親の分まで、人生を愉しもうとしているのかもしれない。
「絵を描くことが、ひとみさんの愉しみなんですか?」
「学生時代はたくさん絵が描けたのに、社会人になったら全然時間がなくなって。仕事が嫌いな方でもなかったけど、働かなくても当分困らないなあと思ったら、絵が無性に描きたくなったんだよね。実は、今日から描きたい物を探す旅に出ようと思ってたんだ」
 一瞬思考が停止した。瞬きもせずに、ひとみさんをみていた。ひとみさんが、不思議そうな顔な顔でわたしをみた。断ったら、旅に出てしまうんだろうか。残り少なくなった自分のコーヒーをみて、気持ちがさらに落ち込む。
「ちょっと質問いい?」
 わたしは頷いた。
「君は、僕のことを前から知ってるみたいだけど、いつ頃から?」
「去年の春頃です」
 思い出そうとしているのか、少し眉根を寄せてわたしの顔をみていた。バイトに入った平日の朝には、必ずといってよいほど会っていたのに哀しくなる。
「よほど、余裕がなかったんだろうな」
 ひとみさんは、マグカップのコーヒーを飲み干した。
「ところで、引き受けてくれるよね?」
 少しまじめな顔でそう言った。
「あの、どうして、わたしなんですか?」
 ひとみさんが、目を細めた。
「『スマイル0円』に革命を起こしたいって思って」
 意味がわからなくて何度も瞬きをした。
「君の笑顔に、対価を払いたくなったってこと」
 やっと意味がわかった。
「そういう意味なんですね」
 急に笑いがこみ上げてきた。唇を噛んで、笑いを抑えようとしたけれどどうにもならなくて、両手で顔を隠した。
「で、引き受けてくれるの?」
 顔を隠したままで頷いた。
「交渉成立ね。じゃあ、握手しよう」
 手のひらをどけて、顔を出す。目の前に、ひとみさんの手のひらがあった。おそるおそる右手を差し出す。
「君の手、知ってる」
 そう言って、親指の爪と関節の間にあるほくろに指先で触った。
「いっつも、深爪してるなと思ってた」
 恥ずかしくて手を引っ込めようとしたけれど、その手をひとみさんは捕まえて、強く握った。

 店を出て、少し立ち話をした。
「講義が終わった後で、また会える?」
 本当は、自動車学校の実習へ行くつもりだったけれど、予定をかえることにした。もっと、ひとみさんと話がしたいと思っていた。
「何時くらいになりそう?」
「五時くらいには……」
 急げば帰れる。
「じゃあ、画材を買いに行くのにつきあってもらえるかな。その後で、食事でもどう?」
 頷いた。ひとみさんは嬉しそうに笑う。それから、連絡先を交換した。
「終わったら、電話もらえる?」
「わかりました」
 そう言った後で、恥ずかしくなってうつむいた。
「帰ります」
 深くお辞儀をして、家に向かって歩き始めた。ひとみさんも、並んでついてくる。わたしは、ひとみさんをみた。
「僕もこっち」
 よく考えれば、毎日のようにコンビニへ来ていたのだから、近所に住んでいるのだろう。
 話すわけでもなく、コンビニの方向へ並んで歩いていく。昨日まで、こんな風にひとみさんと歩くなんて、想像もしなかった。わたしの願いは、買い物に来てくれないかな? 程度だった。
 ひとみさんは、わたしの持っていた印象よりずっと話しやすい。会いたかった理由は、単純にカッコよくて目の保養になるからだ。今は、もっとお話ししたかった。ひとみさんの声も話し方も、好きだ。ずっと、もう少し若いのかと思っていた。十五歳も離れていたら、わたしのことは子供っぽくうつっているだろう。
「ねえ」
 声をかけられて、慌てる。
「君のこと、なんて呼んだらいい?」
「な、なんでもいいです」
「仲良くなりたいし、名前で呼ぶよ。律ちゃんて言いにくいから、呼び捨てにしてもいい?」
 自分の顔が真っ赤になったのを感じた。
「どうぞ」と言って、うつむいた。「かわいいなあ」と言われ、さらに顔が火照る。
「律って本当にいい名前だね」
 自惚れたことが恥ずかしく、これ以上ないくらい顔が熱くなった。
 バイト先のコンビニの前にたどり着いた。
「明日の予定は?」
「一日フリーです」
 ひとみさんは、良かったと言って笑った。
「じゃあ、一日僕が買ってもいい?」
 買うと言われて、心が沈む。
「あの、お金いらないです」
「それは、だめ。僕は旅に出て、散々お金を使う予定にしていたのに、君を描くことにして中止になっちゃったし。モデルのバイトなんて長くったって、三ヶ月くらいのことだから、稼げるときに稼いだ方がいいよ。どうせ、防音室が欲しいなんて言ってるくらいだから、そのうち、良い楽器が欲しくなって、夜のバイト始めたりするのが落ちなんだから」
 心を見透かされているのかと思った。
「お金を払わないと、たくさん拘束できないでしょう。ほんと、集中して描きたいから、無理言うと思うしさ」
 わたしは、頷いた。お金をもらえば、たくさん会えるんだと、自分を納得させた。
 コンビニの前で、また挨拶をする。
「じゃあ、また、よる……夕方ね」
 ひとみさんは、なぜか言い直した。
「夕方までに契約書を作っておくね。みとめでいいから印鑑を持ってきて欲しいのと、その時にバイト代の受取口座を教えて」
「わかりました」
 うつむいて、ため息をのみ込む。
「律」
 頭上に響いた声に驚いて顔をあげる。
 ひとみさんは、頭をかきながら、笑った。
「呼び捨てするの、ちょっと照れるね……ささはらさん……」
 わたしは顔を思い切り横に振った。
「な、名前で……呼んでください」
 ひとみさんは、微笑むと「お言葉に甘えて、そうする」と言った。
「また、後で」
 嬉しくて「はい」と返事をしてしまった。
 コンビニの前の信号が変わった。一礼して早足で横断歩道へ向かう。ひとみさんも後からついてくる。
「ごめん、僕もこっち」
「そうなんですね」
 まだ少し一緒にいられると思うと嬉しくなる。それでも、家は近いのですぐに着いてしまった。ひとみさんも立ち止まる。
「律の家、ここ?」
 わたしの住んでいる賃貸マンションを指さしてひとみさんは言った。頷く。
「僕の家は、こっち」
 ひとみさんは道を挟んで真向かいにたつ分譲マンションを指さした。
「全然、会わなかった……、よね?」
 ひとみさんが自信なさげに言うから、おかしかった。
「コンビニ以外では、会ったことありません」
 断言できる。
「でも好都合、家に帰ったら連絡してね。下りてくるしさ」
 わたしは、頷いた。

 家に帰り中に入った途端に、なんだか、力が抜けて、靴も脱がずに廊下に腹ばいになった。フローリングの床が冷たい。
「ベートーヴェンさんの名前、ひとみさんって言うのかあ」
 髪型も変わっていたし、今日はずっと笑顔だったから、もう、ベートーヴェンさんって感じではなかった。
 仰向けに転がり直す。天井を眺めながら、今日みたひとみさんの顔を思い浮かべた。
 名前で呼ばれた時の声がよみがえって、また頬が熱くなった。バッグからスマホを取り出し、SNSの画面をひらいて文字を打ち込む。
『会いたかった人に会えた』
 呟いた。
『夜も、会う約束した』
 呟く。
『あー何着ていこう』
 大問題だった。わたしは寝転がったまま靴を脱ぎ捨てた。
 体育の授業でやらされた変形ダッシュみたいに急いで起き上がると、クローゼットまで走った。

 服に迷いすぎてバスに乗り遅れた。バスの本数が少ないだけで、自転車でならまだ間に合う。いつもの倍の速度で急いだ。
 夕方にひとみさんに会うと考えただけで胸がいっぱいになり、昼食もとれなかった。不思議と、平気だった。
 自転車を置いて待ち合わせ場所へ走って向かう。数年前に建て替えられた棟の一階に学生達が集えるラウンジがある。そこで美佐子と待ち合わせていた。目的の棟は随所に曲線を取り入れてあり近未来風だ。ギリギリ間に合った。ラウンジの入り口に立ち探すと美佐子がすぐに見つかった。美佐子は、わたしをみるなり笑った。
「こころなしか、おしゃれ」
 服は、買いに行く時間もないし、持っている中ではましなものを選んだ。
「SNSみたけどさ。運命さんに会えたんだよね?」
 美佐子はベートーヴェンさんを勝手に運命さんに言い換えている。素直に頷いた。
「すごく優しくって、やっぱりカッコよかった」
「いきなりデートとかマジ謎」
 デートという響きに、顔が熱くなる。
「メイクはしなくて良いの?」
 普段すっぴんで過ごしているので、まともな化粧道具がなかった。
「何時の約束?」
「五時過ぎ」
 行く前に、美佐子がメイクしてくれることになった。
 時間まで、美佐子とたわいないおしゃべりをして過ごした。ひとみさんのことをいろいろ聞かれた。わたしはどこまで話して良いのかわからず、首を傾げたり、曖昧に微笑んだりした。
 訊いても無駄だと思った美佐子が、自分のバイト先の変わったお客さんのことを話し始めた。
 美佐子の話が面白くて、あっという間に時間が過ぎていった。
 解散する前に、美佐子がメイクをしてくれた。少しは、大人っぽくなったかなと思いながらも、自分が自分でないような恥ずかしさがあった。
 美佐子が「わたしのコートの方が、今日の服に合ってるから」と貸してくれた。
「その代わり運命さんの写真待ってるからね」
 わたしは撮れるはずがないと思いながら笑顔を返した。
 早く帰りたかったけれど、汗でメイクが崩れないように、ゆっくりと自転車を漕いだ。車が混んでいるのもあって、思ったより時間がかかってしまった。いったん家に帰ってバッグをかえた。ひとみさんに電話をかけるのに、緊張しすぎてスマートフォンを持つ手が震えてしまう。何とか、発信した。ひとみさんがすぐに出た。
〈早かったね〉
 耳元で声が響くから、余計に鼓動が速まる。
〈先に契約書の方を済ませたいから、マンションの下で呼び出して〉
 部屋番号を教えられた。
「わ、わかりました」
 これから、ひとみさんと契約をかわす。わたしはバッグの中の印鑑と通帳を確認した。美佐子に反対される気がして、本当のことは言えなかった。
 マンションから出て、真向かいのマンションに入る。オートロック手前のインターホンで部屋番号を押すと〈あれ? まあいいや〉と、ひとみさんの声が聞こえて、自動扉が開いた。
 エレベーターの中でため息をつく。緊張していた。インターホンから聞こえたひとみさんの声も、なんだか気になる。
 七階でおりて、左右をみて数字の並びを確認していたら、少し奥のドアが開いてひとみさんが顔を出した。頭を下げて駆け寄る。
「雰囲気が違うし驚いた。昼は化粧するの? 」
「やっぱり、変ですか? 友達にしてもらったんですけど……」
「変じゃないよ。もったいないと思っただけ」
 化粧したことを後悔して、うつむいた。
「僕に気を遣ってくれたんでしょ。普段の律と歩いてたら犯罪臭するよね」
「は、犯罪だなんて、そ、そんな!」
「冗談だから」とひとみさんは笑った。
「とにかく入って、早く買い物に出たいしさ」
 慌てて扉の内側に入る。ハンガーを渡された。
「コートはそこにかけておいて」
 言われたとおりにウッドポールにかけた。フリルのついたセーターを着てきたので、落ち着かない。
 ひとみさんの部屋は、とても広かった。広いのに、物が少ない。わたしのワンルーム全体の二倍はありそうなリビングと、他にもいくつか部屋があった。リビングには、テレビも見当たらず、まだ何も描かれていない白い板が、木の大きな写真立てのようなものに立てかけてある。
「家具をほとんど捨てちゃったんだよね。律に似合う椅子を明日探しに行こう」
 ひとみさんに言われて、ソファーに腰掛けた。生活感がないせいか、部屋に入ってから少し緊張が薄らいだ。
 テーブルの上にひとみさんが書類を置いた。
「目を通して。問題なければ署名捺印してね」
 書類を手に取った。
 契約書とタイトルがあり『人見 靖彦(以下甲という)』と始まった。
 わたしは顔を上げた。
「ひとみさんってこうやって書くんですね」
 人見さんは「漢字? そう、瞳だと思ってたの?」と自分の目を指差した。
「そうでもないんですけど、漢数字の一と何かかなとか」
 人見さんは頷いた。わたしは書類に目を通す。時給について五千円と書かれていたのでまた顔を上げた。
「時給が高すぎます」
「キリが良くて計算が楽でしょう」
 人見さんは多分、かなり計算が速い。キリが良くなくてもそう苦にならないはずなのに。
「君に不利な部分って、講義や僕の認める用事以外、僕のところに来なきゃいけないってとこだけでしょう」
 乙は、講義および甲の認める用件以外を理由として甲の求めを断ることはできない。と、書いてある。
「僕が必要とする時は、いつでも僕の家に来なきゃいけないってなかなかハードでしょう」
 人見さんの問いかけには、返事をしなかった。もう一度契約書に目を通して、署名欄に名前を書いた。バッグから印鑑を取り出して、名前の後ろに押す。
「律の印鑑、名前だけなんだ。かわいいなあ」
 恥ずかしくてうつむく。
「銀行名、支店名、口座番号を書いといて」 
 バッグから通帳を取り出して、メモにうつす。
「三ヶ月くらいで解放するから、我慢してね」と言われ、少し残念に感じた。
 もう一通、同じ内容の契約書をつくった。人見さんも、甲の欄を書き込んで、契約書を一通ずつ別の茶封筒にしまう。一方を渡された。
「律は若いから、署名捺印の重さがわかんないんだろうけど、もっとよく読まなきゃだめだよ」
「読みました」
「じゃあ、律はどこで何をするって書いてある」
 茶封筒から取り出してもう一度読む。
「場所もこの部屋とは限定されていないしね。ほら、ここ、甲によって指定された場所にってあるでしょう。それに、甲によって依頼のあった用件について、その内容が公序良俗に反する場合を除き、直ちに履行するものとする」
「一応、そこは読んで大丈夫だと思いました」
「本当に? 桜島を背景に描きたいからって鹿児島に呼び出すかもしれないし、公序良俗に反しないって結構範囲広いよ。交通費込みだよ」
「わたし、どうしたらいいですか?」
 困って、人見さんをみつめる。人見さんは目を細めた。
「どうって、僕の依頼を何でも引き受ければいいだけだよ。今日は、画材を買いに行って食事をして、明日は一日僕と過ごして、椅子を探したり……、軽くスケッチくらいはしたいな」
 人見さんは「これから三ヶ月くらいの間で、僕が世間の恐ろしさを教えてあげるから」と付け加えた。
 どう答えたらいいかわからなくてうつむいた。
「書類をしまってくるね。ここにいてもつまらないから出かけよう」
 顔をあげる。人見さんは嬉しそうに笑う。
「コンビニのバイト、最短でいつ辞められる?」
「今月いっぱいでも……ちょうど辞めようと思ってたので来月のシフトまだ何も入れてないんです」
「今、週に何回入ってる?」
「三回くらいです」
 人見さんはほんの数秒、目線を横にずらして、それから数回頷いた。
「残り二年バイトを続けて稼げる分は、僕の相手を三ヶ月間毎日二時間するだけでペイできるよ」
「毎日、二時間いたらいいんですか?」
「あくまで僕が必要とする時だよ。一日で十時間超えるかもしれないし、何日も会わないかもしれない」
「わかりました」
 人見さんはわたしをまっすぐみた。
「律ってさ……まあいいや。僕はとことん」
 少し怖くなるくらい鋭い目になった。
「つけこむよ」
 冷たい響きに捉えられて、目をそらせなかった。
「律は一度家に帰って契約書をしまっておいで」
 二人でエレベーターに乗り込む。部屋で一緒にいた時より緊張した。人見さんはダウンジャケットのポケットから、朝買っていったガムを取り出した。すすめられ断った。辛いガムは苦手だ。人見さんが、くすりと笑ったから、子供っぽいことを言ってしまって後悔した。
「僕も辛いガム苦手なんだけど、少し我慢したら味がなくなるよ」
「我慢してるんですか?」
「タバコを我慢して、ガムの辛味も我慢してる」
「前から同じガムでしたよね?」
「あの頃は眠気覚まし」
 あの頃って、ほんの数ヶ月前の話なのに、人見さんの生活スタイルは大きく変わって、今、わたしと一緒にいる。とても不思議だった。
「タバコをやめても意味ないんだけど、願掛けしようと思ってさ」
「なにを願掛けしてるんですか」
「人に話したら効果なくなりそうだから言わないよ」
 わたしは頷いた。
 一階についた。人見さんは自分のマンションの前で待つと言う。わたしは走って家まで帰った。外はすっかり暗くなっていた。人見さんの家からわたしの家まで一分もかからない。ここで暮らし始めてもうすぐ丸二年なのに、本当に会わなかった。それだけ生活のリズムに差があったんだと思う。契約書を自分の部屋のクローゼットにある大事なものをしまう箱に入れ、すぐに人見さんの元に戻る。早いと驚かれた。「近いですから」と返した。「たしかに」と、楽しそうに笑ってくれた。
 電車かタクシーかどっちがいいか訊かれ、電車を選んだ。駅まで並んで歩く。いつごろから、今のマンションに住んでいるかを訊ねると、二年前だと言われた。
「ここに転勤が決まって家を探してたらちょうど一部屋売りに出ててさ。ローンで買った。次、転勤になったら賃貸にしようと思って。なんかあの時ピンときて買ったけど正解」
「ローン、返しちゃわないんですか?」
「うん、ほっといてももうすぐ完済するしね」
 内容の割に表情が暗くなった。
「そうなんですか?」
 人見さんはくすりと笑った。
「家がいくらくらいして、ローンの金利負担がどのくらいでとか、何にもわかんないんでしょう」
「すみません」
 恥ずかしくなってうつむいた。
「いいなあ、僕にもそういう時期あった。ローンを返さないのは、ちょっと税金を節約できるからなんだ。せこいでしょう。払う金利より控除される額が大きいって、いい時代」
 人見さんの言うことは難しい。
「律と話してると、自分まで純粋になれそう」
 コンビニの前にたどり着いた。
 辺りが暗いのに、ソフトクリーム型の看板にスイッチが入っていない。店内はすいているから、忘れているのだろう。指摘しにいくのも面倒なので、近づいていって、コンセントを差し込んだ。クリーム部分がまぶしくなって、顔をそむけた。
「自動じゃないんだね」
 人見さんは楽しそうだ。店の外で、たばこを吸っている人がいて、煙が漂ってきた。手で口元をおさえる。喉を守るために吸い込まないようにしていた。人見さんに訊かれて、説明する。
「それで? たばこをやめたって僕が言ったとき、すごく嬉しそうな顔したよね」
「すみません。失礼なことをしてしまって」
 人見さんは、「別に失礼じゃないよ」と言った。
「僕さ、禁煙にチャレンジして失敗を繰り返してきたんだよね。だから今回は、結構大きな願掛けをして、頑張ってる」
 頑張ってるって響きが、なんだかかわいく思えて、そして、そう感じた自分が恥ずかしくなってうつむいた。
 帰宅する人の流れに逆らいながら駅への道をすすむ。バスか自転車での移動が多いから駅に行くのは久しぶりだった。葉が落ちてむき出しになった枝を、街灯が照らしていた。 
 駅に着くと、人見さんは路線図を見上げた。
「画材買いに行くには、少し遅くなったから、食事だけにしようか」
 人見さんと一緒に行けるのなら、どこでも嬉しい。でも、胸がいっぱいで食欲がなかった。人見さんから体調を心配された。慌てて大丈夫だと伝えた。
「律ってお酒飲める方?」
「実は、まだ飲んでないのでわかりません」
「まじめなんだ」
「コンパに誘われても行ったことがないですし、サークルは入らなかったので……」
 段々恥ずかしくなってきた。これではものすごく根暗みたいだ。実際、人と関わりを持ちたい方ではない。唯一仲の良い美佐子はバイトに追われていて、学校以外で会うことはない。
「ねえ、焼き鳥屋って行ったことある?」
 ないことを伝えると、人見さんが嬉しそうに「そっか、そっか」と言った。それから、切符を買って一枚渡してくれた。
「せっかくおしゃれしてくれたけど、焼き鳥屋に行きたくなったから付き合って」
 笑顔で頷く。
「絵も描くけど、同時進行で律の初めて集めをすることにした」
「は、初めて集めですか?」
 人見さんから「律が初めてすることを、僕も一緒にしていくゲーム」と、説明された。
「今日律は、初めて焼き鳥屋に行って、初めてお酒を飲む」
 人見さんが楽しそうに言う。わたしもワクワクしてきた。
 十五分ほど電車に揺られた。降りたのはオフィス街の駅だった。高層ビルに並ぶほとんどの窓に明かりがついている。
「辞める前は、この時間はまだ外にいたかな」
 七時もまわって、真っ暗なのに大変だ。
「終値が出た時点で帰れたら楽だったな。マーケット分析は面白かったか」
 わたしをみずにそう言った。多分、独り言だ。
「早く食べて帰ろう」
 何もかもが物珍しい。タクシーがこんなにたくさん走っているのをみたことがなかった。
「いろんなタクシーがあるんですね」
「そういう風に考えたことなかった」
 人見さんが楽しそうにしているので、嬉しい。すぐに焼き鳥屋がみえた。お店の外に漏れ出した匂いだけで、空腹を感じ始めた。考えたら、昼食をとっていなかった。
 暖簾をくぐって店に入る。中は、明るくて暖かい。結構女の人がいる。おじさんが行くお店だと思い込んでいた。タレの匂いが充満していて、唾を飲み込んだ。
「カウンターで良いよね」
 ついて行った。人見さんは脱いだコートを足下のかごにいれた。同じようにする。木の四角い椅子に腰掛ける。おしぼりとお茶が運ばれてきた。それだけで、もう楽しかった。
 目の前で、焼き鳥を焼いている。備長炭に肉汁が落ちる。水分が蒸発する音まで美味しそうだ。うっすらと煙が上がる。わたしは焼いている人の手元にみとれた。
 人見さんが「適当に頼むね」と言った。
 しばらくすると、同じ歳くらいの女の子が飲み物を運んできた。ビールジョッキに白い液体と氷が入っている。人見さんはビールだった。
「それじゃあ、契約成立を祝って乾杯」
 ジョッキの当たる音と、氷が揺れる音が綺麗だった。ひと口飲む。人見さんをみた。
「飲みやすいでしょう」
 カルピスの味の奥にかすかな苦みがあるだけで、美味しかった。
 焼き鳥に、こんなに種類があるとは思わなかった。どれも、それぞれ美味しい。特につくねの中の細かな軟骨の食感が気に入った。
 店を出る頃には、フワフワの良い気分を味わっていた。夜の冷たい空気が頬に当たって気持ちがいい。
「人見さん」
 名前を呼んでみる。
「何?」
「人見さーん」
「一杯で酔っ払った?」
 これが酔っ払うという感覚なのか。酔っているんなら言っても大丈夫かと思った。
「ずーっと、人見さんが来てくれるの待ってました」
「え?」
「だから今日はすごく嬉しかったです」
 大きく手を広げて夜の空気を吸い込む。立ち止まる。
「髪型は前の方が好きでした」
「心機一転、丸刈りにしたのが伸びてきたんだけど、戻そうか?」
「やった」と、ガッツポーズをしてみせた。
「なんか、酔うとよく喋るね」
 人見さんが笑う。その後ろで街灯やネオンがきらめいている。 目を閉じてみる。
「名前を知らない頃、わたし、人見さんのことベートーヴェンさんって呼んでました。いつも顰めっ面で……」
 目を閉じたまま歩き始めると、グラグラと揺れて楽しかった。
「そういう印象で、どうして待っててくれたのか不思議」
「なんだか、苦悩してる感じでいいなあって」
「律って、変わってるなあ」
「でも、優しい人見さんの方が」
 何かに足を取られてバランスを崩す。腕を支えてくれた。
「優しい僕が何?」
「何て言おうとしたのか忘れました」
 腕につかまっている。たまらなく恥ずかしくなった。動悸が激しい。呼吸を整える。
「律、お酒弱そうだから、飲みに行くとき気をつけるんだよ」
 優しく背中をさすってくれる。余計に苦しくなってしまう。
「ごめんね、無理に飲ませて」
「あの、お酒は楽しいだけで、なんともないんです」
「やっぱり体調悪かった?」
 頭を横にふった。
「本当に大丈夫なんです。改めて、人見さんと一緒にいると思ったら、き、緊張してきただけです」
 自分で次から次へと余計なことをしゃべってしまうから、困る。目も合わせられない。
「あ、ありがとう」
 わたしは、限界を感じて手で顔を覆った。
「年甲斐もなく、照れてしまった」
 そう言った人見さんの声が、本当に照れくさそうだったので、どんな顔をしているのだろうと気にはなった。だけど、顔をあげることはできなかった。
 帰りはタクシーに乗った。人見さんはわたしに気を遣っているのか、あまり話さなくなった。わたしは、おしゃべりしすぎたせいで、自己嫌悪に陥っていた。
「明日、バイト行くときくらい早く起きられる?」
 早起きは得意なので「大丈夫です」と、伝えた。人見さんはしばらく何も言わなかった。
「ちゃんとお金払うから、どっかに朝日をみに行こう」
 わかっていてもいちいち傷つく。
 人見さんにとっては気まぐれかもしれない。それでも、明日になってすぐに会えると思うと、やっぱり嬉しかった。

 家に帰った途端、歌いたい気分になって、配信を準備した。ノートPCを立ち上げ、マイクやカメラをセッティングしていく。アコースティックギターをケースから取り出して、座椅子の横に寝かせた。
 ノートPCのモニターに、ギターが映し出された。顔が映らないように、PCカメラの高さを調整してある。『モイ! PCからキャス配信中! 少し酔ってるかもです!』と、SNSに告知をした。
 わたしは、チューニングをしながら、人が来るのを待つ。
『こんばんは! 今日は早いね』
 早速コメントが入った。
「音量はちょうど良いですか?」と、視聴者に問いかけて、指で弦をはじいた。
『よく聞こえる』『OK』『いい感じ!』『まだ、電車! イヤホンでも大丈夫』と、画面の右側に、コメントが表示されていく。
「こんばんは、のりまきさん、ねろさん、えっと、なんてお読みしたら良いのかな、ごめんなさい。とにかく、いらっしゃい。こころ君、まだ帰ってないんだ。お疲れ様。いつも聴いてくださってる方も、初見さんもいるのかな? コメント残していただけると嬉しいです」
 つぎつぎコードをかえて、指をならしていく。
『酔っ払ってるってほんと?』
 画面に映っていないところで頷く。
「そうそう、初めてお酒飲んだの。それも焼き鳥屋さんで」
 わたしは、PCに話しかける。
 どこにいるのかわからない相手だけど、確実にその向こうにいて、わたしの相手をしてくれている。
『何、歌う?』
 わたしは、弦から指をはなした。
「あー、なんか、恋の歌が歌いたい気分」
『なに? なに? 彼氏でもできたあ?』
『まじか!』
 誤解をされた。ただ憧れの人と再会できただけだ。
「彼氏はできてないよお」
 慌てて訂正する。
『PCってことは、今日はおうち?』
「そうそう、だから、声をはる歌はなし、しっとり、しっとりな感じで」
 画面の文字に話しかけると、コメントが返ってくる。最初のうちはいちいちドキドキしていたけれど、今では自然にやり取りができる。
『ホシアイ歌って』
「ホシアイ、途中しかわかんないかな、ごめん」
『カルク』
「あー、今夜は失恋系じゃない方がいいかなあ」
『やっぱり彼氏できたんでしょう』
「できてないんだな、残念ながら……ねえ、今日は、ボカロじゃなくてもいい?」
『いいよ』
『おけ』
「ありがと、すっごく歌いたい歌を思いついた。恋の歌じゃないけど」
 PCに手を伸ばしキーボードをたたく。別のウインドウでコード譜を表示させた。
「大原櫻子さんの『瞳』歌います」
 人見さんのことを思い出して、つい口元が緩む。顔はうつらないから、誰にも見られずにすんだ。



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