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私と英語とコンプレックス
こんばんは。
仲良しのスペイン人の友達の結婚式に参列するため、バレンシアに行ってきました。
バレンシアに訪れるのはこれで2回目だったけど、そこで過ごす日々は幸せそのものでした。
でもタイトルは「私と英語とコンプレックス」。「スペイン旅行記」ちゃうんか。
スペイン旅行記も書くけど、適当に書きたくないんです。今回はフライト待ち時間にザーッと書くのに丁度いい、でも私にとって大切な思考の記録、願わくば皆さんのお役に立ちそうなのが「英語」についてのことだったんです。でも書いてたら長くなり過ぎて、結局今回はテーマ的に「コンプレックス」「修士留学」に落ち着いちゃいました。
こうやって書いていると結論を急ぎたくなるのが私だけど、結論ファーストは人生を語るのには相性が悪いし、味気ない、というよりシンプルにそれは正しくない。ので、順を追って書き連ねていきます。
私と英語 No English, No Life
ちょっと小学生に時を戻そう。
私が日本を飛び出したいと願ったのは、小学生の頃だった。ディズニー映画で海外(というより西洋だね)テイストに興味をもち、NHK番組「世界ふれあい街歩き」で海外への憧れは最高潮に達した。
海外、という言葉を使うと「それって西洋だよね?西洋中心的だ」と批判的になりたくなるのが、上智大学総グロ生の性だと思う。だが、当時の私少年は「海外」という概念を用いて、日本と全く違う文化に全く違う言語を使って飛び出すことを強く夢見ていた。
今考えても「海外」に危険なほど夢を見過ぎていた。でもそれが今の私をここまで連れてきてくれて、しかもそれほど期待を裏切られていないことを考えると、全ては夢見ることから始まる(Disney, n.d.)というのも、間違いではないと思う。
そんな流れで、私は英語に強い興味を持つようになった。小学校では元々勉強が出来たし、親にも褒められた(これは私にとって非常に大きい)。中学に入学し、英語が自分の最も得意な教科になった。別に学年1位とか突き抜けているわけではなかったが、友達にも英語が結構得意な人だと認知されている程度ではあった。私は英語が出来て、ディズニーが好きで、海外が好きな人なんだ。そうであるはずだ。そうやって自己が形成されていった。
深掘りすればキリがないので、ここから大学時代にビュンと飛ぼう。
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大学時代 好きなことが、最大のコンプレックスになった
少々飛ばし過ぎだが、筆記に筆記を重ねる一般受験を経て、晴れて上智大学総合グローバル学部に入学する運びとなった。
当時の総合グローバル学部(総グロ)は、一般受験で入学した学生の比率が、確か2割ほどだった。
帰国子女、国際系の高校、カトリックの高校、留学コースがある高校から等、とにかく多様な推薦で埋まっていた。
一般的に、推薦より一般受験の方が持ち上げられる傾向にある。そういうコンテンツが世に溢れているし、推薦で入学した学生から「一般すごいね!」って言われることも少なくなかった。
勘のいい方は、私がなにでコンプレックスを刺激されることになったか分かったかもしれない。
総グロの推薦入学者の多くは、英語が話せる。私は、話せない。
もうこれに尽きる。私は散々英語好きを自称していたのに、話せないんだ。全然話せない。(どのくらい話せなかったかなどのレベル感は次の記事で書く。ここでは、私が全然話せなかったと当時感じていた)
当たり前といえば当たり前だ。英語の授業は9割以上が筆記、自由時間は殆ど部活に捧げる。それでもその高校では英語出来る人としてやって来れてしまったわけで、国際的な大学に送り込まれた途端、英語が出来ない人に成り下がった。
英語のクラスでは、6クラス中の上から4つめとかだったと思う。
まだ覚えているのが、そのときの英語の先生が「今年の学生の英語力が落ちているのは、一般受験の補欠合格の学生を取りすぎたからだ」と言っていた。自由に冒険する素敵なおじいちゃん先生の発言だった。思い出しただけでも胸が痛む。怒りは湧かない。ただただ悲しい発言だった。
私は私なりに中高勉強してきたのだが、英語を話せない。経験がない。経験している学生が妬ましい。彼女達は正しい。正しい国際感覚を、正しい経験によって得ている。私が出来なかったことだ。進撃の巨人のライナーの言葉は私にも刺さってしまう。私は中途半端なクソ野郎だ。
私が自分自身に感じているように、彼女達も私のことが理解出来ないだろうし、私を英語が話せず、実践経験を積まず、「お勉強」しかしてこなかった無能だと思っているんだろう。実際に無能だ(今は全くそう思っていないし寧ろプラスに捉えている、これも次の記事で書く予定)。
コロナが直撃して、ろくに情報を得ずグズグズしていた私は、またも留学の機会を失った。
1年で国際交流サークルで出会った留学生達は皆国に帰った。この辺で生きるのが嫌になった。’そういう’危険な願望があったわけではないが、常に自分が嫌いで、毎日はずっと楽しくなかった。
闇を彷徨っているみたいで、私ってこんなもんなのかな、やっぱ人間には限界があって、私の限界はこんなとこかもしれないって思っていた。
周りには上智大学で、国際的な学部で、塾やカフェなんかでバイトしちゃって、キラキラしていると思われていたのかも分からない。多分思われていた。コンプレックスとほざいているとはいえ、世間一般よりは英語が出来て、有名大の肩書きもあって、おしゃれに働いて、ちょっと見た目も褒められる感じで…これらがさらに自分の無能感を強めた。本当に自分が大嫌いだった。
無能、無能、無能…私は無能という言葉が嫌いだ。私は私の無能さをよく知っている。人を傷つける以外の意図でこの言葉を使うことができない。どんなに肩書が自分を飾っても、自分の無能さは生まれつきかのようだ。インポスター症候群といわれるらしいが、症候群でもなんでもなく、事実だと思っている。
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留学への決意 Game Changerはディズニーシー
父は私に修士留学をして欲しがっていた。自分が留学経験が積めず公開しているからだ。母は私が順当に就職するもんだと思っていた。
私は修士留学のことを全く知らなかったにも関わらず、自分に可能だなんて露ほども思ってもいなかった。自分の可能性を一切信じていなかった。
就職して、時が来たら留学できるかもね、くらいに思っていた。時なんて来ないのはうっすら分かっていたけれど。
就活として動き始めたのは3年になる前だったが、国際人間としてやっていきたいのにこれといって国際的な活動をしているわけでもなく、矛盾点が多すぎた。満足いく就活なんて出来るわけがないことは、始めから分かっていた。それでも、それ以外に道はないと当時は思っていたから、父と大喧嘩してその道に足を踏み入れた。そこから父とは何ヶ月間も話さなかった。
3年の夏…だったと思う。家族3人でディズニーシーに行った。ディズニーシーでソアリンに乗らないのは、私からすれば何しに来たんだ、と言いたくなる。約10分の世界旅行のために、朝一で110分並んだ。やっと出番が来た。
開始10秒で涙が流れ、その後止まらなかった。
アトラクションが終わりレストランに入っても、ずっと泣いていた。親の前で泣いた。ちなみにこれに乗ったのは5回目とかだった。
私の人生を思い出した感覚だった。私はこのために、日本から飛び出してすごいものを見てやろうと思って生きてきたのに、就職という一般的な道に不利だからといって、自分の人生を裏切る気かと、そんなこと出来ないと。死ぬ前に横になって「外の世界を見られなかった」なんて後悔したくない。
もうどうでもよかった。レールにピッタリ沿って来た人生だったが、女子の修士留学が就職に不利だろうが、ジェンダーが不利だろうが、一切どうでもよかった。日本から飛び出さなきゃ私の人生じゃない。飛び出さなきゃ一生後悔する。日本から飛び出して、日本の社会、会社からこいつは擦れた学歴ロンダリングフェミニストバイブの女だとして拒まれてもいい。絶対に絶対に飛び出したいし、やるなら今までグズグズしてきた分修士を取りたい。学問は私が自分事として一番情熱を持って出来る、ジェンダーをやりたい。イギリスで修士留学をする(イギリスに決めたのは、費用、年数、言語、文化、学問等の条件で最も適していたから)。
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決意の後
そこからは意外とすんなり行った。進む道が決まり、やるべきことが明確になった。4年になる前に父に1ヶ月間のイギリス留学を勧められて、生活するためのイギリスの感覚を少しは掴めた気がした。
4年の秋は大変だったのは覚えている。IELTS、推薦状、志望動機書、卒論、ストレスな人間関係への対処、同時期に全部こなしていた。
志望動機書や推薦状は、英語ネイティブの友に随分助けられた。彼は私が言語交換アプリで知り合ったアメリカ人で、近況を話していたら「自分は文章を書くのが得意で、collegeではそれを専攻していたから任せてくれ」と、自ら申し出てくれた。本当に凄く丁寧にGoogle documentで添削してくれて、アドバイスももらった。彼は今日本の有名大学で哲学の修士過程をしている。現在も本当にいい友人だ。この記事を見ているのだろうか、ありがとうねD君^_^
無料出願エージェントを通して社会学で有名な大学幾つかに出願し、オファーを貰ったところから諸条件を定めて大学を決めた。
気になる学費だが、父親の意向だったということもあり、折半することとなった。少しでもお金を稼がないとと思ったので、イギリスでもできるようにと、元々やっていたバイトに加え4月からオンライン塾講師を始めた。そこから7月まで所謂フリーターをしていた。
6月にビザの手続きをし(これについては意地でもエージェントに課金したくなかったので全部自分でやった、相当ストレスだった)、8月中旬にイギリスに飛び立った。
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修士、就職 意外とこなせた自分
イギリスに来てから英語について自信を失うこともあったが、これについて記事を改めて書くと決めている。どうでもいい、留学したいんだよ!と投げやりにイギリスに来てしまって留学を始めたが、結局就職云々はどうなったんでしょう?
…どうにかなるじゃないか。どうにかなり過ぎるほどどうにかなった。日本社会のレールから外れて疎まれるどころか、寧ろ待遇的には歓迎されているほどだ。予想とは正反対だ。
修士留学者なら迷うであろう、現地就職か日本就職問題。感情的に考えれば、現地にそのまま就職しちゃった方がかっこいい。だが私の場合、日本就職が非常に合理的だった。新卒カード(有効だとは思わなかったのだが)が使えるというのもあるが、イギリス政府は24年春から就労ビザが降りるための収入基準を大幅に引き上げた。レストランの店員等では、もうイギリスに長いこと滞在出来なくなってしまったのだ。オフィスワークになればなるほど、キャリア無しの外国人は門前払いされる。たとえ英語が流暢だったとしてもだ。VISAの問題は自分じゃどうにも出来ない運命だから。
逆にキャリアと実績さえ持っていれば、見向きくらいはしてもらえる可能性が高まる。人にアドバイスするつもりはなかったのだが、あくまでも当時の事実を述べたらアドバイスっぽくなってしまった。とはいえ現地でそのまま就職する人を、私は超えられないと思っている。あまりにもかっこいい。同時に私の選択も、誇りに思おう。
ここまででも修士留学に後悔する必要がなかったことは分かるのだが、就職が決まる前連続で会社に落ち続けた際も、ここに来たことを後悔しなかった。
一度たりとも一日たりとも一秒たりともホームシックにならなかった。来たばっかりは馴染めず、親しい人達に会いたくて苦しかったときもあったが、絶対になんとかしてやろうと思った。全くもって帰りたくならなかった。周りに助けられながら、自分でコントロールする人生は世界一最高だ。
最近Psychology of Money (日本語版)という本を読んだが、幸せとは自分の人生をコントロールする感覚だ(Housel, 2021)と書いてあり、首がもげるほど頷いた。今まで私に足りなかった感覚だ。
これから先どんなに生きても、この幸せを忘れないように心身に刻み込みたい。
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こんな筈では…
本当は英語について書きたかった。私と英語の関係に思うことがあったから。でももう5000字書いているから、記事を改めないといけない。
正直言うと、自分の記事が誰かの役に立てるなんて毛頭思っていない。好きに書いている。正直でいることが好きだからだ。飾り気なく、かっこ悪く、そのままでいることに価値がある。真実を話している人も、カッコつけず語っている人も、意外と少ないものだ。
好き勝手書いている記事が、意外と何人かから好評だったりする。こんな書き殴りなのに、文章力を褒めてもらったりもした。感謝されたりもする。だから自分だけに留めておかず、今回も公開することにした。誰にどう届くか分からない、当てもなく書いているのは不思議なことだ。それで喜んでもらえるなんて、なんかくすぐったいような気分になる。
でも本当に私は英語について書きたかったんだ…そっちのが多分多くの人に関係するし役に立つはずなんだッッ
ここまで読んでくれた人がいるのなら、ありがとうございます。私からExtra Loveを…muchas gracias…次の記事をお楽しみに。