せつなのものがたり
今年の2月、手術をした。右膝前十字靭帯断裂、半月板損傷。年内の復帰はできないと告げられた。
柔道を始めて今年で16年経つが、過去には左中指靭帯断裂、腰の筋肉断裂、右足首靭帯断裂、それが完治した直後に右足首靭帯断裂を経験した。もっとひどい怪我をした仲間はたくさんいた。怪我は焦燥感を生む。そしてその焦燥感が、選手から余裕を奪う。「怪我をしている間が強くなるチャンス」などと言うが、そうだとわかっていても、競技をできないフラストレーションはたまる。何より、まだまだ精神が育っている途中の中高生には理解しがたい概念なのではないかと思う。
私の他校の友人の話だ。高校2年の夏の終わり、稽古中に、言葉にするのが憚られるほど悲惨な怪我をした。全治1年。最後のインターハイ予選には間に合わないだろうと言われた。たまに合同練習で顔を合わせたときは笑っていたが、その時の胸中までは聞けなかった。もう大会で会えないのか、と思って臨んだ3年のインターハイ予選。友人は怪我を完全に治して戻ってきた。恐ろしい精神力だと思った。結果は1回戦敗退。かなりいい試合をしていたと思う。復帰したばかりで優勝候補を相手にここまで試合ができると思わず目頭が熱くなった。試合終わり、「負けたわ」と私に言ってきた友人に、怪我があって全然練習できてなかったのにあれだけの試合ができたのはすごいと、あろうことか慰めのような言葉をかけてしまった。友人は、私に縋って、泣き崩れた。
「怪我をしてたとか、リハビリしてたとか、そんなん言い訳にもならんねん。負けって結果がすべてなんや。勝ちたかった。これで終わりなんか嫌やった。」
友人の言葉で、私もその場に泣き崩れた。他の仲間も一緒に泣いていた。
私たちにとっては、刹那の時間がすべてだ。たった4分の中で、自分の力を示す。たった4分で、短ければ2秒ほどで、私たちの柔道人生は終わりを迎える。何年、何日、何時間の練習も、すべてそこに詰め込まれている。それこそが柔道の面白いところで、怖いところでもある。怪我をして、血反吐を吐きそうになりながら重ねたリハビリも、結局結果を出せなければ意味がない。勝負の世界とは、そういうものだ。過程が大事だったなんて言葉は、その一瞬にすべてをかける選手たちにとっては本当に、きれいごとでしかない。そして、結果を出す機会すらもらえなかった選手たちの気持ちの行き場は、どうなるのだろうか。
春の選手権、インターハイに続き全中が開催中止になった。高校3年生の後輩は、「不完全燃焼です。3年間頑張ってきたのに、チャンスももらえないんですか」と行き場のない怒りと悔しさを抱えていた。大会に向けてコンディションを調整していた選手たちは肩透かしを食らい、実力を発揮する機会を奪われた。ひどく虚しいだろう。モチベーションを保ち続けるのは容易なことではないし、今年が最後だった選手たちは切り替えるのも難しいだろう。進路のこともある。そして何よりも、柔道をやりたくてもできない歯がゆい思いが、より心を空虚にする。
こんなことを書いてきたが、実は私自身はあまり勝負にこだわりがない。たた単純に「好き」で「面白い」から続けている。ひとつ他の選手たちと共通するのは、早く畳の上にあがって、柔道をしたいということだけ。
柔道は、古いしきたりが多く残り、痛くて、怖い競技だと、世間では思われているだろう。その側面を否定することはできない。体罰という行為が根強く残っている学校もある。それも厳しさのひとつだと「体罰」という認識すらない学校もあるかもしれない。幼い頃6年間体罰を受けた私も少なくとも当時は、そのような認識がなかった。投げられれば当然痛い。ふとした拍子に大怪我をしてしまうこともある。最悪、死んでしまう可能性すらある。それなのに、何がいいの?と聞かれると、少し答えるのが難しい。私にとって、柔道をするのはずっと当たり前で、それ以外何もなかった。それでも言えるのは、柔道は、とびっきり楽しいということ。そして、私はずっと柔道が大好きだということだ。
洗練された技は美しい。磨かれた体捌きには目を奪われる。極められた技というものは、「くる」とわかっていても避けられない。逆に経験を積んで感覚が身についてくると、反射的に体が動いて技を捌ける。避けられない技を受けたときの感動が好きだ。相手を投げることに快感を覚えることはないが、磨いてきた技がハマったときの達成感はたまらない。人の数だけある個性的な柔道はどれも魅力的で、いくら見ていても飽きない。相手への礼儀を重んじる武道らしい礼節には身が引き締まる。そして試合が終わればみんな仲間で、学校の垣根を越えて仲良くなれるのは、個人競技ならではの楽しみだ。言葉にできない想いも、たくさんある。
先にも述べたように、私は勝負に対する執着がない。それはとても不誠実で、失礼なことだ。それでも私は私なりに、真摯に柔道と向き合い、共に歩んできた。たった4分という刹那に、すべてを注いできた16年間だった。多くの選手たちと歩み、紡いできたものがたりだったのだ。それはとても美しく、きれいで、今もずっと色あせることなく、私の中に形を残している。そしてそれは、途切れることなくこの先も続いていく。
刹那にすべてを懸ける選手たちを見届けてほしい。そして、一瞬も見逃さないでほしい。そこには、私たちが歩んできた「ものがたり」が詰まっている。再びすべての選手が畳に上がれるようになる日を、私も楽しみにしている。そのときには、私も同じように畳の上にいることを願いながら。