自分語りへの墓標
noteへ最初に投稿した記事に、自分の歴史について語るのは苦手と書いたが、これはそんな苦手意識にかこつけて自己開示を避ける自分への墓標である。
何故そうするかというと、同じく物を書く十年来の友人が、九割聞いたことのない半生について綴っていたからだ。
いやほとんど初耳だよお前何で黙ってた?と思ったのと同時に、自分の書いたことを思って「はぐらかしていたな」と反省したのである。なので、覚えている範囲のことになるが、私がどうしてこうも家族と縁遠いのか、それについて何を思っているのか、どう紐解くつもりなのかを書こうと思う。
重たい話になるので、別に読む必要はない。十年の付き合いを経て自己開示した友人に対してもまだまだ自分をごまかしていた詫びであり、形の掴めないものにずっと悩まされてきた自分を救うための記事である。
これって愛着障害ってやつだったのか
私は育ちが悪い。柄が悪いとか治安が悪い方ではなく、毒親育ちという意味の育ちの悪さだ。そのため、何かと社会性については不具合がある。心身共に虚弱で家庭環境もイマイチ、ADHDも持っているため、現状心療内科の世話になっている。ADHDと長年の不眠のため服薬していることもあるが、二次障害というものなのかうつ病にもなった。(現在はそれも小康状態にあり、急性期に20キロ減った体重も平均程度に戻った。何ならやや太ったのでまた節制しなければいけない)
少し良くなってきた今は根幹治療のためにインターネット集合知を駆使し、自分の持つ不具合についてどう応じればいいのかを調べるようになった。なぜかといえば、育ちのせいで自分が割を食い続けるのはムカつくからである。ええ~?と思うような理由だが、できないことを自覚していてそのままにしておくのも非効率なので、自分なりに認知の歪みは解消したいというだけだ。いや、ムカついてはいるのだがそれは置いといて。
自分は自己肯定感はさほど低くないのに、どうしてこうまで追い詰められたのか?どうして上手く社会に馴染めないのか?家庭環境は勿論なのだが、謎の答えとして「愛着障害」というものすごく正解らしき概念が提示されたのである。
愛着障害って何さ、という説明については検索すれば専門医による説明がすぐ出てくるので割愛させてもらうが、簡単に言えば幼少期に親との関係が不良だった場合に出てくる不具合だそうだ。
そのうちの一つに自分の持つものがピッタリどころかあまりに身に覚えがありすぎ、「エウレーカ!」となったので似たような境遇の誰かの一助になればと思い、ここにシェアしておく。
https://shuchi.php.co.jp/article/8858
身に覚えがありすぎる「回避型」愛着障害
私は人間が好きか嫌いかで言えば嫌いだし、かなりドライな方だと自覚している。十年来の友達に対してこれまでの辛さを打ち明ける(というか、外に向けて発信する)のも十年あってようやくのことだ。そのくらい人と仲良くなることは私にとって難しいというのがお分かりになるだろう。
そういった特徴は記事によれば愛着障害の中の「回避型」(または拒絶型)にあたるという。
生まれた時から家庭に所属できておらず、帰属意識がない。親がいなかったようなものと解説されていたところや、「一人で生きざるを得なかった」あたり、まるっとそのまますぎてウグッとなった。
私にとっては共に育った姉が親みたいなものだが、姉はやはり姉なので、そこまで面倒は見切れまい。姉だって子供だったのだ、子供に子供を育てさせるのは無理がある。姉妹で年齢もそこそこ離れているため、一緒に遊ぶことも難しい。結果、私は一人だったのだろう。
また、そういった境遇に深い憎しみがあるということも身に覚えがありすぎる。何なら、今までのことあんま覚えてないから語れないと書いたのも恐らくこのまんまである。
自立心はあるので、自己への自信が全くないような気弱ではないが、どうしてか拗れているあたりもかなり身に覚えがある。(愛着障害のタイプ別の違いはこちらのページがわかりやすいので、参考に貼っておく。→https://tokyoco.jp/dismissing-attachment/)
父も母も嫌いだが、姉とは仲の良い私
自分の育った家庭が嫌いで憎いともあるが、その通りだ。親とは表面上連絡もたまには取るし、訪ねてくる予告があれば出迎えるし外出も一緒にするが、帰ると「ようやく帰った」とすごくほっとする。親のいずれかとでも一緒にいることは、私にとってとてつもなくストレスのかかることなのである。
逆に姉とは、こんな家庭で育ったが故に喧嘩もあれど同じ敵を持つ戦友のような部分があり、オタクとしての師匠か育て親のようなものだ。だからかいい年になった今でもLINEで毎日やり取りするし、週に一度くらいは通話をして月に一度ほどは会って遊ぶ。休みが合えば、家に泊めることもある。姉の推しがコラボしている飲食店にフードファイト要員としてついて行くことさえある。
比較すると同じ家族でもこれだけ親と姉で感覚も距離感も違う。そのくらい、私と親との距離は遠く、親を好きになることは未だにできていないのだ。
ここから先は父母への憎しみを連ねていくので、全く面白くない話になる。人によってはトラウマを刺激したり嫌な気分になる可能性があるので、読む場合は留意して頂きたい。重ねて言うが、これは私が私を救うための文章である。読んで苦しくなってしまうのであれば、読むのをやめて私のほうじ茶の記事にでも飛んでほしい。
ろくでなしの父
私の父はろくすっぽ働いておらず、母を働かせて酒を飲みまくるクソッタレであった。酔って暴れるというほどではないが、狭く自室もない中川の字で寝ていると起き上がってうろつき私を踏みつけていくし、寝てるうちに全裸にもなるし、風呂場で小便をすることもあった。私が長年悩まされている不眠症はここが根源だろう。なんにせよ、幼い時分から安心して眠れた試しがなかった。(なお、姉はそれでも爆睡していた。心身とも頑丈な人である)
普通に考えて、こんな父を好きでいられる理由がない。だが父は外面だけはいいので、割と外の人には好かれておりいつも愛想良く振る舞っていて、それがより一層恨めしかった。本当はろくな人間ではないくせに、と。
そんな幼いながらに生きていく上で邪魔でしかない父を、私はいつ怒りのままに包丁で刺してしまうか気が気でない毎日を送っていたのを覚えている。
何なら、数年前に私が親と姉と住んでいた借家を出るに至ったとき、そろそろ出なければならない理由があるという話を期限の直前に言ってきて、ふざけんなバカもっと早く言えよ!引っ越すにも色々準備がいるだろうが!と私がキレ父をぶん殴って慌てて出てきた経緯まである。父の肩を殴りつけて、痛みに顔をしかめていたのを見たときはスカっとしたものだ。老いたお前よりも今は私の方が若く強く力もある、ざまあみろと思った。積年の恨みがこもった拳だった。
父からは稀にLINEが来るが、ほぼ読まずに生存報告としてだけ確認しているし、特に会いたくはない。もうだいぶ老人なので耳も遠いしこちらが苦労してまで話す意味もない。父が孤独に死んだとしても、自業自得というところだろう。
ひとつ恐ろしいのは、父が死んだとして、私は正しくその死を悼めるだろうかということだ。父への憎しみ恨みが勝って、葬式を台無しにするのではないか、父を好きだった弔問客に酷い事実を言ったりしないか、まだ来ない葬式のその日についてを恐れている。
それから、恨んでいても私の境遇として、父の全てが悪だったわけではない。少なくとも飯は用意してくれていたし、朧気ではあるが、父と過ごした時間には街に咲く花の名前や、図鑑にある宝石の名を教えて貰う程度の思い出はあったから。
父はろくでなしだ。だが全くの悪人でもなく、私にとって善人でもなかった。その父の死が遠くない将来現実になったそのときに、私は正しく悲しむことができるのだろうか。恨んでいるし嫌っているが、完全にはそうできない苦しみがずっと心にわだかまっている。
母は私を選ばなかった
母についても同様である。強く憎んでおり、だが完全には嫌いきれていない。母は決して子供に愛情のない人ではなかったからだ。憎むのも嫌うのも、罪悪感が付きまとって離れない。
私の母は子供に愛情がないのではない。愛情深いが、自分で人生に重大な選択をできない人だったのだ。
前述したが、家計のほとんどを担っていたのは父ではなく母であった。母が遅くまで働きやりくりをして、姉妹二人を奨学金の力を借りつつも大学まで出してくれた。未だに苦しければと援助を申し出てくれるし、あれこれと世話を焼いてくれる。
その感謝はある。でも、私は母を好きになれない。
私が母と時間的にすれ違いながらも同じ家で暮らしていたのは、齢二桁になったかならないかくらいの頃までである。
父は酒を飲みに外へ行き、母は働きに外へ出ていたが幼い時期には一応同じ家で暮らしていた。朝幼稚園に行く私に早起きして弁当を作り、午後には働きに出て私が寝る時間を過ぎてようやく母が帰るような、そんな生活リズムだった。だからあまり遊んだ記憶も話した記憶もない。一人で全てをこなしていた母に、そんな余裕はなかったのだろう。当然である。
小学校に上がってしばらくした頃、母は勤務先の移転に伴い、単身赴任となる。それは仕方のないことだから、私もそうか仕方ないと思うまでだった。だがそれも今となって考えてみれば、仕事の都合だけではなかったのだろう。
つまり母は私と姉を、ろくでなしの父のいる家に置いて自分だけ外へ逃げたのだ。臭い物に蓋をするように、面倒ごとを遠ざけて。
それが、私と母の間にある深く広い溝である。
勿論当時に離婚したわけではない。そんな度胸も選ぶ決意も彼女にはなかった。浮気ができるほど器用な人ではない(母の勤務先店主との仲は疑わしいと当時から思っていたが、考えないことにしていた。それが事実であったとしても父があれなら仕方がないし、別にどうでもいいからだ)し、月に数回は子供の面倒を見には来ていたから、単に一時的に逃避しただけなのだと思う。
でも私からすれば、それなら父をさっさと捨てて私達子供を連れて離れればよかったではないかと、そう思ってしまうのだ。通っている学校のことなどもあるから、彼女の視点では気を遣ったのだろうが、酒浸りで安心できない父のいる家に子を置いて行くことと転校による不便なら後者の方が余程マシなはずだ。何なら新しい真っ当な男を見つけて、新しい夫と連れ子とで暮らす方が、家庭は複雑だがきっと金銭的な苦労もなく拗れもしなかっただろう。たられば論ではあるが、彼女はまた大きな決断から逃げてしまった。
やはり母は、私を選ばなかったのだ。
そうやって放任しているように見えて、母は自分が金を握ってる自負ゆえか、私が早々に会社員になるのは向いていないだろうし絵を学んで職業にしたい、自立したいと考えた進路を真っ向から否定し、普通科に入れと言って喧嘩になったこともある。
勉強ができないわけじゃないのだから偏差値の高いところにと受けさせられた公立校は、自分で唯一やりたいと選んだことを叩き潰され精神的にめちゃくちゃだった私のせいで見事に落ちた。滑り止めの私立校に入って(本当はそれも嫌だった)、学校のカリキュラムに美術の美の字もない反動か、家でパソコンに向かい私はずっと絵を描いていた。
それもあまりいい顔はされなかった。勉強をサボっていたので当たり前ではあるのだが、私は親に勉強してるところを見られたり口出しされる(会話が発生する)くらいならば一人で黙々と絵を描いていたかった。
大学受験の年齢の時にも母は私が絵かシナリオの勉強ができる専門学校を希望したのを否定し、四年制大学を勧めてきた。案の定喧嘩になった。私はもうスポンサーに逆らうのは無理と判断して、「受けてはみるが落ちたらどこにも進学はしない」と約束を取り付けて、物語を書ける学科のある大学を全く受かる気のないまま受験し、うっかり合格した。嫌々ながら入った大学で長い付き合いの友を得たので悪いことばかりではなかったが、母は一度も私の自由にさせるつもりはなかったようだ。世話焼きなのは支配欲の言い換えとはよく言ったものである。
その罪悪感なのか罪滅ぼしのつもりなのか、母はいつの頃からか私がうつ病で酷い有様になったと姉から聞き及んで、一人暮らしになってから妙に気にかける素振りを見せるようになった。
確かに支援はありがたい。だがそれでも、許す気にはなれなかった。
母は私が幸せになることを望んでいないのだと思う。自分と同じように選択を誤り、不幸であって欲しいと深層では思っているのだろう。これは私ではなく、姉の考察だ。これまでの行動の全てがその表れだと言われたら、そんな気はする。
結局、母が私の選択を肯定することはなかった。子の幸せと起こりうる変化を天秤にかけて、子を選ぶことはしなかった。結局母は何も選ばなかった。自分で決めなかった。
そして、子供である私に厭われている。これも自業自得だと思う。
これが私のろくでもなく薄っぺらい記憶による半生だ。このくらい書けば自己開示したことになるだろうか?そうだとよいが。
私はまだ憎悪の嵐の中にいる
私はこの文章を、自分を救うために書いている。だから、読んでもきっと面白くはないし不愉快になるだろう。思い出して書いている私もそれなりに苦しい。だがそれでも私は、この怨恨逆巻く嵐の中で自立せねばならない。まだ生きなければならない。だから唯一残った自分の力である文章で、嵐に耐えなければいけないとこうして文字を綴っている。
私などよりもっと酷い嵐の中にいる人もきっといるだろう。不本意な心と体を引きずって、憎悪の嵐を耐えている人が。
似たような境遇の人がいたとしても、私達にはそれぞれの地獄、嵐があり、本当の意味で連帯することはできない。傷を舐め合うこともできない。だが、同じく憎悪の嵐の中立っている。その事実だけは覚えておいてほしい。孤独な歩みになるし、慰めもない苦しい道のりだろうが、その一点においてのみ、私達は同じことをしている。
憎悪や悪意の嵐に晒されていない人は幸福だ。晴天の下、朗らかに生きて欲しい。だがその近くに嵐に立ち向かう人がいたとき、どうか嘲笑うことだけはしないで欲しい。人には人の地獄がある。手を差し伸べなくてもいいから、とどめだけは刺さないでやってくれ。
繰り返すが、私は私の救いのためにこれを書いている。意味はたったそれだけだ。オチもない。
もし同じく嵐に立ち向かわねばならない境遇の人がここまで読んでいたらの話だが。
私は同じく風雨の中進み苦しむ者として、あなたの嵐がいつか晴れて、報いになるような綺麗な空が見えるよう、祈っている。