「推し」と「萌え」の違いは何なのか
先日、東浩紀氏著作の『動物化するポストモダン』(2001)を読了した。この本の副題は「オタクから見た日本社会」と銘打たれており、実際に現代における消費行動の変容をオタクの「二次創作」や「萌える」といった行動に着目し、「データベース消費」の概念を提示した。
本著は非常に面白く、刺激的な内容であったが一点、疑問が残ることがあった。それは「萌え」という言葉は本著が刊行された2001年時点では新しく、主流の言葉であったが、現在ではあまり使われていないのではないかという問いだ。実際に私の周りでも「チノちゃん萌え~!」という人よりも「シャロ推し」や「シャロリゼ尊い」といった形容をする人の方が圧倒的多数に思える。
私は本noteにおいて「萌え」から「推し」への遷移について、消費社会学的観点から論じていきたい。
1.「データベース消費」の概念について
まず、議論を進めていくうえで大前提となる「データベース消費」の概念について説明せねばならない。
字数の関係上、大枠だけ説明することにする。「データベース消費」とは「単純に作品(小さな物語)を消費することでも、その背後にある世界観(大きな物語)を消費することでも、さらには設定やキャラクター(大きな非物語)を消費することでもなく、そのさらに奥にある、より広大なオタク系文化全体のデータベースを消費することへと繋がっている」(東 2001:77-78)のだという。
これは『新世紀エヴァンゲリオン』の登場キャラクター「綾波レイ」の例から考えるとわかりやすい。いわゆるポストエヴァにおいて綾波に似ているキャラクターが頻出するようになったことはあまりにも有名だが、この現象について東は「レイの出現は、多くの作家に影響を与えたというより、むしろオタク系文化を支える萌え要素の規則そのものを変えてしまった。その結果、たとえ『エヴァンゲリオン』そのものを意識しない作家たちも、新たに登録された萌え要素(無口、青い髪、白い肌、神秘的能力など)を用い、無意識にレイに酷似したキャラクターを生産するようになってしまった」(東 2001:75)と分析している。
つまり「データベース消費」とは単にキャラクターに「萌え」ているのではなく、そのキャラクターの萌え要素を分解し、背後にある自身のオタク・データベースと照らし合わせることで「萌え」ているのである。
2.「推し」とはどのような行為なのか
上記で「データベース消費」と「萌え」について述べたが、次に「推し」という言葉の意味や行為そのものについて考えていきたい。
まず「推し」という言葉が持つ意味についてweblio辞書によれば「人やモノを薦めること、最も評価したい・応援したい対象として挙げること、または、そうした評価の対象となる人やモノなどを意味する表現。」とされている。また、「近年の美少女アイドルグループのファンの中では自分の一番のお気に入り(のメンバー)を指す表現として「推し」と表現する言い方が定着しており、昨今ではドルヲタ界隈の用語の枠を超えてアニメキャラや球団を対象に「同種のものの中ではこれが一番好き」という意味合いで広く用いられるようになりつつある。」と追記もされていることから、今や「推し」という言葉は市民権を得ていることが窺える。
ここで言及しておきたいのは、「推し」という言葉にはグループや作品内の登場人物など数ある中から一つを選ぶといったニュアンスが含まれていることだ。
反対に「萌え」についてweblio辞書によれば「ある物や人に対してもつ、一方的で強い愛着心・情熱・欲望などの気持ちをいう俗語。必ずしも恋愛感情を意味するものではない。」とされている。
「萌え」には選ぶというよりも一方的に愛をぶつける、消費するといった意味合いが強い。
しかし、ここで疑問が生じる。「データベース消費」においての萌え要素を指す「萌え」と、行為としての「萌え」るという行為には若干の意味の齟齬が生じているのではないか。この点が「推し」と「萌え」の違いについて考える上で重要になっていくのではないかと私は考える。便宜的に、要素としての「萌え」を「広義の萌え」、行為としての萌えを「狭義の萌え」と定義したい。
そう考えると、広義の萌えは行為として解釈しようとすると、萌え要素を分解するということを示すとすれば、「推し」という行為も広義の萌えに内包されているのではないか。
図としてわかりやすくまとめてみた。
広義の「萌え」の中には「尊い」といったある種の行為も内包されているだろう。
3.なぜ「推し」が主流に
広義の萌えの中に「推し」が内包されているのではということは考察できた。では次はなぜ狭義の萌えよりも「推し」の方がよく使用されているのかについて考えていく。
消費社会学の第一人者、ジャン・ボードリヤールの著書に『消費社会の神話と構造』(1970)がある。同著は消費社会の構造について解説、予見をした名著であるが、ここでは「記号論」という概念が登場する。ボードリヤールによれば、「人々は決してモノ自体を(その使用価値において)消費することはない。―理想的な準拠としてとらえられた自己の集団への所属を示すために、あるいはより高い地位の集団を自己の集団から抜けだすために、人びとは自分を他者と区別する記号としてモノを常に操作している」(ボードリヤール:1970 80) のだという。
少しわかりづらいが、簡単に言うとモノの価値はそれ自体の使用価値ではなく、モノに付与された差異化の記号にあるといった理論だ。
これはブランドの商品に例えるとわかりやすい。有名ブランドのTシャツとユニクロのTシャツは機能の面では同じかもしれないが、それに付与されたブランド(差異化の記号)に価値があるため前者の方が高額になっている。
ではなぜ人はこのような有名なブランドのTシャツを購入するのだろうか。その理由を記号論では他者との差異化、つまり自己アイデンティティの呈示を果たすためであるとしている。
この記号論の考えをもとにすると、「推し」が主流になった理由は非常にわかりやすい。
例えば○○推しというTwitterのbioは自身の特徴、アイデンティティを端的に表すことができる。同担拒否や夢女子などの言葉が続いて書いてあれば尚更だ。
前述のように「推し」という言葉は多数の中から一つを選ぶというニュアンスを含む。広義の萌えも、例えばともちん(板野友美)萌えなど同じようなニュアンスを含んでいたが、「推し」という語句そのものが持つ意味からして、「推し」の方がわかりやすくアイデンティティを主張できるため、「萌え」から「推し」に移ろいでいったことはある種必然であるといえるだろう。
この遷移の段階で、従来の「萌え」つまり広義の萌えが、「推し」、狭義の萌え、「尊い」といったものに細分化されていったのではないかと考えられる。(2章での図参照)
つまり、「推し」という言葉が台頭した理由は、徹底された消費社会においては自分の好きなアイドルやキャラクターですらも自分のアイデンティティを表現する記号となり、またオタク文化がサブカルチャーからメインカルチャーに遷移していくにあたり、その差異化の必要性がより顕著になったことが語句の変化という形で表れたためであると考えられる。
「推し」という行為を通し、人は自分自身を表現しているのだ。
終わりに
ここまで「推し」について語ってきてなんだが、私はこの言葉があまり好きではない。
「萌え」という言葉のなんとも言えない気色の悪さが好きだ。
今やアニメや漫画はサブカルチャーではなく、メインカルチャーとなっている。ライトノベルをクラスで読んでいることがバレることを恐れ、ブックカバーをつけて読んでいた時代からすればいい時代になったものだ。
それでもまだ私は気色の悪いオタクであり続けたい。そう思っている。
長門有希ちゃん萌え〜!
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