昔の話をしよう
もう10年以上前のことだ。僕がまだ学生だった頃、同じクラスに「小城夜みるく」という子がいた。先日、不思議な体験をしたことをきっかけに、長い間忘れてしまっていた、あの頃のことを、ふと思い出した。
彼女との思い出を、もう二度と忘れないように、今思い出せる限りのことを、すべて、ここに書き残しておきます。
忘れていた、彼女との思い出
僕は今年で31歳を迎える、どこにでもいる普通のサラリーマン。
今日は仕事でだいぶ帰りが遅くなってしまった。酒でも買ってさっさと帰ろうと、いつものコンビニへ歩きスマホをしながら入ろうとしていた僕は、店を出ようとする学生服を着た女の子に気付けなかった。すれ違い様に、肩がぶつかりそうになる。
「あ、すみません…」
小さい声で謝りながら、通り過ぎていく彼女。すみせん、と僕も小声で呟く。なんてことのない日常、よくあることだ。
でも今日は違った、すれ違った瞬間、心臓が強く脈打った。
急いで振り返る。
足早にコンビニを後にする、見覚えのある後ろ姿を目で追う。
間違いない、あれは、僕のクラスメイト"だった"、小城夜さんその人だった。
あの日と変わらない姿の彼女は、そのまま街の雑踏へと消えていった。
まさか…まさかね…小城夜さんがこんなところにいるはずがない。それに、おかしいよな…まだ学生だなんて、ありえない。
だってもう、あの日から、”ぼく”が隣の席の彼女を見つめ続けていたあの日々から、彼女と再会を果たし、そして再び別れることになったあの日から、10年以上経っている。
きっと見違いだ、疲れているんだろうな…そう自分に言い聞かせながらも、忙しない日々の中で、いつのまにか忘れてしまっていた、”あの頃”のことを、ふいに思い出した。思い出してしまった。
クラスメイトの小城夜さん
ぼくは、同じ中学校に通っていた、クラスメイトの小城夜さんのことが好きだった。
彼女とは、3年間、同じクラスだった。この辺りでは生徒数も少ない、辺鄙な学校だったので、たまたま同じクラスが3年間続く、なんてことは、そこまで珍しくはなかった。
席替えはいつもくじ引きだった。小城夜さんとは不思議と隣の席になることが多かった。小城夜さんが窓側、ぼくがその隣、流石に毎回ではなかったけれど、この席順になれた時は、とても嬉しかったことを覚えている。
地元もずっと一緒だった。小学校も同じだった。昔は明るくて元気ではつらつとした子…みたいな印象だった。根暗で口数も少なかったぼくの目には、ちょっと眩しすぎる子だったな。
でも、中学生になってから、なんだか雰囲気が変わったみたいだった。
クラスメイトの小城夜さんは、授業中も、ずっと窓の外を眺めていた。外の景色を見ているのか、もっと遠くを眺めているのか、その視線の先になにがあるのかは、結局最後までわからなかった。
窓際の席じゃないときは…あれ、どうしてたっけ。窓際に座っているときの小城夜さんの姿しか、今となっては思い出せない。肩下くらいまで伸びた、綺麗な銀色の髪が、少し開けた窓の隙間から吹き抜ける風にあたって、ふわふわと揺れる、その景色を見るのが、何よりも大好きだった。
休み時間はいつも一人だった。小学校のころは他の女子と楽しそうにおしゃべりしている姿も見かけたように思う、けど、中学時代の3年間は、ほとんど声を聴いた覚えがない。今も思い出せるのは、一人、窓の外を眺めている、あの姿だけだ。
クラスメイトの小城夜さんは、ずっとヘッドホンをつけていた。学校には持ち込み禁止と先生に何度怒られても、絶対に持ってくる意志の強さには驚かされたな。
彼女の耳は、いつも何を聴いているのか、知りたいと思ったこともあるけれど、彼女と同じ音を聞くことは、最後まで叶わなかった。
3年間もクラスメイトだったのに、いつも彼女の姿を目で追っていたのに、結局一度も話しかけることは、できなかった。
クラスメイトの小城夜さんは、学校を休みがちだった。はじめはそんなことなかったのだけれど、ある時、突然1ヶ月近く姿を見なくなり、久しぶりに登校してきたと思ったら、それ以来、学校に来ない日が増えていった。
何があったのかは知らないけれど、久しぶりに学校に来た小城夜さんは、なんだかそれまでとは別人に見えた。思えばあの時から、それまでとは纏う雰囲気が変わったように思う。
明るくて元気だった、小さい頃の小城夜さんとは本当に別人みたいだった。その姿と雰囲気に、ぼくは不思議と惹かれていた。
そういえば、学校以外で小城夜さんを見かけることは、ただの一度もなかった。いつも何をしていたんだろう。
いつだって彼女は、窓の外を、どこか遠くを見ていた。
いつも何を考えていたんだろう。
ぼくにはとても、想像がつかなかった。そうしてずっと、思いにふける彼女の姿を、見つめるばかりだった。
どうして彼女のことが好きだったんだろう。話したこともない、家はどこなのかもわからない。小城夜さんのこと、何も知らなかったのに。
クラスメイトの小城夜さんと、中学の卒業式を迎えた日。相変わらず小城夜さんは一人で、遠くを見ている。視線の先には、何もない、ただ青い空が広がっているだけだった。
ぼくも変わらず、景色を見つめる彼女を、ずっと眺めていた。
小城夜さんがふっと、振り返ってこちらに視線を向ける。ぼくは慌てて顔を机に伏せる。こんなことを3年間続けてきた。
ぼくが小城夜さんのことをずっと見ているって、きっと小城夜さんには、ばればれだったんだろうな。
高校はどこにいくんだろう。地元はもう離れてしまうのだろうか。もしかしたらこうして彼女を見つめることができるのは、今日が最後なのかもしれない。いや、かもしれない、じゃない、今日が最後なんだ。そう思うと、胸にふつふつと湧いてくる感情が確かにあった。あったけど、ぼくはなにも言えなかったし、できなかった。
おはようも、さよならも、またねも、好きだったとも、言えなかった。
クラスメイトの小城夜さんは、すっと席を立ち、教室を出ていった。クラスメイトの小城夜さんは、クラスメイトではなくなってしまった。
もう会えないかもしれないな、取り残されたぼくは、彼女がずっと見つめていた、窓の外へと目を向けた。
見慣れた街並みと、青い空が広がっているだけの景色。
あぁ、ぼくは本当に小城夜さんだけを見ていたんだな。窓の外の景色が、こんなにも綺麗だったなんて、この時はじめて気がついた。
すごく小さな声で、さよなら、小城夜さん、と呟いてみた。
もっとドラマティックな最後があるんじゃないかと、内心どこか期待していた自分が、急に恥ずかしく、そしてとても悲しくなってきた。
この気持ちを言葉にする術を、ぼくはまだ持っていなかった。言葉にならない思いを、青空に溶かし込むように、ずっと、窓の外を見つめていた。
これが、小城夜さんが隣の席にいた頃の、今思い出せる限りの全て。
クラスメイトだった小城夜さん
正直、中学生の頃のことなんて、もうほとんど覚えていない。
15年も前のことだ。記憶というのは本当に曖昧で、時間とともに薄れていくものなのだなと、これを書きながら実感している。
それでも確かに、あの時は本当に、クラスメイトの小城夜さんとは、もう会えない、心からそう思い、涙した。それはしっかりと覚えている。
卒業の日からしばらくして、僕は地元から少し離れた、電車で片道2時間ほどかかる場所にある高校に入学した。地元の友達とうまくなじめなかった僕は、僕のことを知ってる人がいない場所で、心機一転、高校生活を始めようと決心していた。
なじめなかった原因は、僕自身にあったのだろう。3年間、隣の席の女の子を無言で眺め続けていたようなやつに、友達なんて、できるわけがなかった。
次こそはうまくやる、そう固く誓って、入学の時を迎えた。
登校初日は上々だった。クラスの人たちとも和やかに談笑できていた、と思う。席が近いクラスメイトとは、すぐに連絡先も交換できた。僕にしては上々な滑り出しだ。このまま新しい生活に馴染める、今度はうまくやれる、決意は確信に変わっていった。
入学式の日から数日が経った。授業も始まり、忙しない日々が続いていた。
一緒に帰る友達もできた。部活にもすぐ馴染めた。体育の授業で4人組作ってと言われても、あぶれることは無くなった。上々だった。
そうして夏が過ぎ、もうすぐ秋になろうとしていた。
いつも窓から外を眺めていた、あの女の子のことなんて、すっかり忘れてしまっていた。そう思っていた。
ある朝、突然、特に理由もないけど、今日はなんだか学校に行きたくないな、という気分に襲われた。うまいことクラスにも馴染めてきたところで、毎日充実した生活だったのに、どうしてだろうか。
理由はよくわからなかった。今思えば、慣れないことばかりの毎日で、少し心が疲れていたように思う。とはいえ当時の僕は、そんな風に冷静に、自分のことを見つめることはできなかった。
頭を真っ先によぎったのは、「こんなとき、小城夜さんなら、どうするかな」というものだった。
きっと彼女のことだ、気が向かなければそのまま、学校なんて平気な顔して休むのだろう。小城夜さんのこと、何も知らないくせに、勝手にそんなことを考えていた。
そう思いながらも、気づけば僕は制服に身を包み、玄関を出ようとしていた。あぁ、ぼくは小城夜さんみたいに生きられない、なんだかそのことが、たまらなく悲しかった。
結局、クラスメイトだった小城夜さんのことは、頭のどこかにずっと残っていた。忘れることなんて、できやしなかったんだ。
その日はすっかり帰りが遅くなってしまった。陰鬱とした気分の日に限って、部活や学校行事の準備で、放課後までびっしり忙しかった。
外はもう薄暗かった。街灯にぽつぽつと明かりが灯り始めた。ひんやりとした風が肌を撫でる度に、夏の終わりと、秋の始まりを感じた。
電車を乗り継ぎ、家路を急ぐ。ホームで次の電車を待つ。
イヤホンから流れる音楽が止まった。親から譲り受けた年代物のウォークマンは、あっという間に電池切れになる。イヤホンを外し、カバンにしまう。
ふと視線を上げる。向かいのホームで電車を待つ人の群れが視界に入る。
人混みの中に、蛍光灯の明かりに照らされて、きらきらと輝く銀色の髪の毛が見えた。
はっとした。全身の血がぐわっと、頭に上ってくる感覚があった。
小城夜さんだ。
そこには、クラスメイト”だった”、小城夜さんの姿があった。
考えるより先に、体が動いた。3年間の思いが、卒業の日まで何も言えなかった後悔が、僕の脚を動かした。
階段を駆け上がり、全力で走った。
向かいのホームについた瞬間、小城夜さんが乗り込んだであろう電車の扉は、無情にも閉ざされてしまった。
千載一遇のチャンスを、今度こそ彼女に声をかけられたかもしれない奇跡のような機会を、僕は逃してしまった。
膝から崩れ落ちそうだった。僕はまた、彼女を遠くから、見ているだけだった。
これは呪いだ
駅のホームで小城夜さん(と確信していた)を見かけた日から、毎日、あの駅でしばらく時間をつぶすのが日課になっていた。
もしかしたら、にすべてを賭けるしかなかった。一歩間違えればただのストーカーだ。若さゆえの情動だと、一笑に付してほしい。
駅で小城夜さんを探すために、部活にはあまり顔を出さなくなった。放課後遊びに誘われても、断ることが増えていった。だんだんと、付き合い悪いな、と思われている空気を感じていた。
それでもやめられなかった。もしあの時、駅のホームで、あの銀髪の彼女を見かけなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。ふとした瞬間に思い出すことはあれど、昔の思い出の一つとして、高校生活の忙しさに追いやられて、頭の片隅から少しずつ、消えていったのかもしれない。
でも、もう手遅れだった。あの時見かけてしまったが故、彼女のこと以外、考えることができなくなっていた。
後悔の念が深ければ深いほど、それを晴らせるかもしれないという可能性を見つけたとき、たとえそれが限りなく0に近い可能性だったとしても、人はそれに縋らずにはいられない。もう小城夜さんのことしか、頭の中にはなかった。
これは呪いだ。僕は僕の中にある小城夜みるくという存在に、すっかり呪われていた。
そうして駅で彼女を探す日々が続いた。季節は冬に差し掛かろうとしていた。
路地裏で
クラスメイトだった小城夜さんを探す日々が続くにつれ、最初に彼女を見かけた駅のホームで時間をつぶすだけでは飽き足らず、隣接した駅ビル内、周辺の商業施設、バス停や大通りに至るまで、駅を中心に、街のいたるところを、彼女の姿を求めて彷徨うようになっていた。
あとはどこを探してないかな…街中をうろうろと歩いていると、一本の路地が目に入った。
不思議な雰囲気の路地だった。古いビルに挟まれて、その路地だけが周りよりも輪をかけて薄暗く見えた。路地は真っすぐで、反対側の出口がぼんやりと遠くに見える、結構長い。道幅も人がやっとすれ違えるくらいで、ほっそりとしている。壁面には室外機や排気ダクトが無造作に備え付けられている以外には、なんの管なのかわからない色々な配管が、雑然と伸びているだけだ。路地というより、ビルの同士の隙間、と言ったほうが正しいかもしれない。それでも不思議と、視線を吸い込まれるような、怪しげな雰囲気があった。
猫の鳴き声が聞こえた。路地の方からだ。もう他に探索していない場所も思い当たらないし、とはいえこんな細い路地に誰がいるとも思えないが…とりあえず、と、足を踏み入れた。
路地内はより一層、さっきまで歩いていた大通りとはうって変わって真っ暗で、じめっとしていた。もう日が傾き始めている時間とはいえ、僕の周りだけ、すっかり夜になってしまったんじゃないかと思うくらい、真っ暗だった。
猫の鳴き声が聞こえた。さっきよりも近づいている。もう真ん中くらいまで来ただろうか?入口からのぞいた時は、暗くてよく見えなかったが、路地は思ったより長く続いているようだ。それにしても、こんなに長いようには、見えなかったが。
何か動いている。さっきから鳴いている猫だろうか。にゃーん、にゃーん、だんだん近づいている。
にゃーん、にゃーん
猫の鳴き声だけじゃない。猫の鳴きまねをしている、人の声が混じる。誰かいるみたい。こんなところに?
動く影が見えた。猫の影。3~4匹はいるだろうか。猫たちが集まっている中心に、座り込んでいる、人の影が見えた。一瞬戻ろうかとも思ったが、慌てて引き返した方が怪しく思われそう、なんとも情けない理由で、歩みを進める。
にゃーん、にゃーん、にゃーん…
見えた。やっぱり人がいる。だぼだぼの黒っぽい上着に、缶バッジがたくさんくっついた、スクールバックを肩からさげて、しゃがみこんでいる。高校生だろうか、声色と体格からして、女の子っぽいな。
猫の鳴きまねをしながら、周りでじゃれている猫を順番に撫でたり、手をひらひらさせて遊んであげているみたい。すごく懐かれてるようだ。
だんだんと近づく。その子は僕がきた方向と反対側を向いている。綺麗な銀色の髪を、視界がとらえた瞬間、”その子”が顔をあげて、こちらに振り向いた。
艶のある銀色の髪、真っ白な肌、吸い込まれるような紫色の大きな目、整った顔立ちと、ほんの少し赤みがかった唇。
息をのむ、とは、まさにこのことだった。
彼女の大きな瞳と、しっかりと目が合ってしまった。
顔が熱くなるのを感じた。小さく震えている自分を、なんとか抑え込むのに必死だった。
やっと出会えた。
彼女は、クラスメイトだった、小城夜さんだ。
「君、誰?」
それが、何年かぶりに聞いた、彼女の最初の声だった。
「私の話、信じる?」
念願の再会の時、あまりにも突然の出来事で、僕は立ちすくんでいた。
声が出ない。小城夜さんの第一声の問いかけに答えられずにいると、彼女は言葉を続けた。
「こんなところに何用?」
早く答えなきゃ。怪しまれてしまう。再会への衝撃と喜びに打ちひしがれながらも、必死に、小城夜さんへ言葉を返す。
あ、えっと、その、み、道に迷ってしまって…
我ながらなんと情けない。ほかにもっとあっただろうに、懸命に絞り出した言葉は、なんとも説得力の無い、言い訳にもならないような返事だった。
小城夜さんはきょとんとした顔を見せたのも一瞬、微笑とも苦笑ともとれる表情に変わった。
「…ふふっ、嘘つき。それ嘘でしょ、私、そういうのわかっちゃうんだよね」
にやにや、したり顔で、僕の目を覗き込んでくる。
つたない嘘が嘘とばれた恥ずかしさと、じっと目を覗き込んでくる小城夜さんの視線に耐えきれず、思わず顔を背け、目をそらす。
小城夜さんは立ち上がり、数歩、僕の方に近づいてくる。
視界の端に、小城夜さんの姿が映る。短いスカートからはすらっとした白い足が伸びていた。足元は白いルーズソックスにローファー。
目をそらし顔をうつむけたまま、少しだけ目線を上に移す。だぼっとしたオーバーサイズの黒いジャケットを着崩し、その中には、灰色のカーディガン、白いシャツ、胸元には水玉模様のリボン、そして首元には、ヘッドホンがかかっている。かっこいいな、純粋に、そんな感想が浮かんできた。
さらに目線を上げる。顎先を視界が捉える。
「で、ほんとは何しに来たの?ここは、誰も入ってこれないはずなんだけど」
あぁ…えっと、その、たまたま通りがかっただけ、なんです…
「ほんまか?まぁいいや、なんでも」
時折砕けた口調になる彼女の言葉使い。小城夜さんって、こんな風にしゃべるんだな…問い詰められている状況で考えるべきことではないと思いながらも、小城夜さんの声が聞けた、その事実に感激していた。
「ほならもう行っていいよ、じゃね」
くるっと後ろに振り返り、先ほどから足元に集まっている猫たちに視線を戻し、小城夜さんはまたその場にしゃがみこんだ。にゃーにゃーと猫たちが寄り添ってくる。小城夜さんはまた猫たちと戯れ始めた。
あの、もしかして、なんですけど、小城夜さん、ですか…?
小城夜さんの動きがぴたっと止まる。ゆっくりとこちらを振り返る。じっとこちらを見据える鋭い視線。その目は、疑念と警戒に満ちていた。
「なんで名前、知っとるん?もしかして、ストーカー、ってやつ?」
ストーカー、という文字列に、完全に焦ってしまった。違うんだ小城夜さん、僕はただ、君と少しだけ、たった一回でいいから、話がしたかっただけなんだ。いや、違う、そんなことをここで伝えてもしょうがない。より警戒されてしまう。あぁ、えっと、その。
あ、あのっ、違います!---中学で一緒だった、---です!同じクラス、だった…
「...?あぁ、そうなんだ。ごめん、私、クラスの人の名前、ほとんど覚えてないや」
そうだろうな、と思いながらも、それでも、という期待感が、心の中で瓦解していく音が聞こえた。そうだよね、僕は君を見ていたけど、君は僕を見ていなかった。当たり前のことだ。
いや、ううん、全然。ずっと同じクラスだったけど、ほとんどしゃべったことも、なかったから…
小城夜さんの眼差しから、警戒の色が少しだけ薄れた。代わりに、彼女は少し首をかしげ、目を細めた。耳元にかかっていた髪が、さらっと揺れて、彼女の顔の前にかかる。耳たぶに、鈍く光るものが見えた。それがピアスだと脳が認識するまでに、少し間があった。小城夜さん、ピアスつけてるんだ。中学の時には、流石につけていなかった気がするけど。なんだか印象が変わったな。鈍く黒い光を放つピアスは、美しい銀色の髪とも相まって、とても綺麗で、彼女によく似合っていた。
肩下まで伸びていた髪は、少し短くなっていた。襟足を綺麗に切りそろえた、ふんわりとした髪型も、彼女にとてもよく似合っていた。
小城夜さんの口角が少し上がる。にやっと、不敵な笑みを浮かべながら、彼女は言葉を続ける。
「そっか。でも、君は私の名前、憶えてるんだね」
それは…うん、一応、クラスメイト、だったから…
「へぇ、律儀なんだねぇ」
僕の返事を試すように、彼女は挑発的に笑う。どこまでが冗談で、どこまで見抜かれているのか、その声色と、吸い込まれそうな深い紫色の瞳からは、察することができなかった。
「まさか昔のクラスの人と、こんなところで会うなんてね。わかんないもんだなぁ」
そ、そうだね、と、小さく頷く。
「まぁでも、今日のことは忘れたほうがええよ。君のためにも」
忘れられる訳がない。こんなにも待ち焦がれた再会の時、そうやすやすと忘れられる訳がない、頭がかっと熱くなった。どうしてそんな、淋しいことを言うんだ。まったくもって自分本位な話ではあるが、驚きを超えて怒りにも似た感情が溢れてきた。
どうして?
自分が意図した以上に、強めの語気で、思った疑問をそのまま、彼女にぶつけてしまった。自分の発した言葉が、自分の耳に届いた瞬間、酷く後悔した。どうして、じゃないだろう。失礼なことをしてしまった。あぁせっかくお話しできたのに、嫌われてしまう。ものすごいスピードで、自己嫌悪が進む。
あ、ごめん…。
気づけば慌てて謝っていた。どうしてこう、うまく話せないんだ。
小城夜さんは一連の僕の慌てふためきようを見て、あっけにとられていた。のも束の間、僕のことを試すような、嘲るような、なんとも表現のしがたい微笑を湛えた。
「どうして、って?うーん、そうだなぁ…」
小城夜さんは再びその場から立ち上がり、また数歩、僕に近づいてきた。
小城夜さんの顔が近付く。
あまりの緊張で胸が高鳴る。思わず顔をそらす、そらした先に、小城夜さんの顔があった。彼女は僕の瞳を覗き込むように、真っすぐ見つめてきた。紫色の、深い海の底のような色をした、大きな瞳の中に、僕の顔が映り込む。
そして怪しげに笑う。
「私、呪われてるんだ、って言ったら、信じてくれる?」
続きは、またいつか
「呪われている」彼女は確かにそう言った。
あまりにも非日常な言葉に、僕はなんて言葉を返したか、はっきりと思い出せない。
高校一年生の冬の出来事、この日以降、クラスメイトだった小城夜さんとは、何度か顔を合わせることになる。そして、再び別れることになる。
とりあえず、今思い出せるのはここまで。仕事帰りのあの日の夜に、小城夜さんを見かけた気がしたことをきっかけに、フラッシュバックしてきた思い出たち。もしかしたらまた、思い出の続きを、思い出す時が来るのかもしれない。
その時はまた、忘れないように、ここに書き綴ろうと思う。
彼女の「呪い」が何だったのかはわからない。もしかしたら今忘れてしまっているだけで、すでに答えは聞いていたのかもしれない。
ただ間違いなく、僕は未だに、ぼくの心のなかにある、小城夜みるくという存在に呪われている。
これは呪いだ。僕はまた、彼女に心を、思考を、支配されている。
彼女の幻影を求めて、今夜もまた、あのコンビニに立ち寄る。
情景描写(イラスト):ふじイ(@ fujii9129)様