「将来の夢はありません」卒業文集にそう書いた僕の現在
忘れもしない小学校の卒業文集。
周りの子が夢を文字に乗せていくなか、僕は何の迷いもなくこう書き始めた。
「僕の将来の夢はありません。」
夢を持つことがダサいと本気で思っていた。どうせ叶わないのに、夢なんて願ったって仕方ない。叶わないのに夢なら始めから願わない方がいい。
サッカーをやっていた当時、1人勝手にサッカーをしているならばサッカー選手と書かないといけないとどこか思っていた。
同じサッカークラブに入っている子たちの将来の夢はもれなくみんなサッカー選手で、スタメンの子ならまだしもここでスタメンにすらなれてないのに本気で思っているのか、なんてことを他の子に対して思っていた。
僕はそんな勝手に感じていた同調圧力が本当にしんどくて、ましてや思ってもいないことを書くということもしたくなかった。
そんな思考の末に行き着いた先が「将来の夢はありません。」だった。
当然先生には止められた。
そして最終的に書いたのが「将来の夢は"今は"ありません。」にするものだった。
"今は"を付け加えることでいずれ出来る、そんな小さな希望を先生はきっと残したかったんだろう。当時の自分の年齢より、先生の年齢の方が近くなった今なら少しわかる気がする。
そして2023年になったいま。
僕には夢がある。しかもいくつも。
夢をダサいと思っていた小学生時代。
その頃の夢との距離感は、決して叶うものではなく、ただ見るもの。
叶う人は一部の選ばれた人で、何かに優れている人、特別な人というものがあった。
そして大人と呼ばれる今になって夢というものとの距離感が変わった。
あの頃よりずっと距離が近くなり、それは「目標」とも呼ぶのかもしれない。
小さい頃にテレビや漫画で見たキラキラした何者かになれるような夢ではないのかもしれない。
でも子供の頃より今の方が生きていて楽しいことは自信を持って言える。
今の方が生きていて本当に楽しい。
それは夢との距離感が変わったからだ。
叶えたいという夢が希望になって毎日の生活を照らしてくれる。
そんな安っぽい歌詞のような言葉が本当にあることを大人になってから知った。
きっと小学生の頃の自分が知ったら驚くだろう。
見えないものに怯えて、誰かに気を遣い自分のことには気を遣わず摩耗する日々。
学年の男子の過半数以上がサッカーをするような小さな学校で、サッカーを辞めたら本気で自分の居場所がなくなると思っていた小学生時代。
サッカーを辞めたくなりすぎて、サッカーの発祥のイギリスを本気で恨んだこともある。
試合でミスをする度に友達でもあるチームメイトから「死ね」「サッカー辞めろや」なんて暴言は当たり前だった。
試合のなかで感情的になってるだけで、それ以外では普通だから気にしすぎることもない。
なんてのは後からにならないとわからない。
当時は本気でそう思ってると思い、何度もずる休みで凌いだ。
辞めたかった。でも辞めるのも怖くて辞められなかった。
そんな苦しい小学生時代の僕が今の僕を見たら何と言うだろうか。
希望はいずれやってくる。
だからその時まで無理に引き出そうとしなくて良い。
夢は希望になる。
こんな言葉が今になってわかった。
2023年、夢はちゃんと持って生きていく。
今年もよろしくお願いします。
ここまで読んでくださりありがとうございました。