落語『井戸の茶碗』について
三遊亭わん丈さんのネットラジオ『サンドラ煩悩』にリスナーから面白いレターが届いていた。
『井戸の茶碗』について。
わん丈さんは「実はいい人じゃない、だから受けてる。そこが落語」とうまく答えていたので、もうそのままでもいいんだけど。
前からこの『井戸の茶碗』について思うところがあったので、ちょっとグダグダ書いてみる。
講談との違い
『井戸の茶碗』好きな人多いよね。
こんな噺。
簡単に言うと、いきなりお金が出てきちゃって、武士二人がどっちもいらない・受け取れないと言うので、間に入った屑屋が大変な目に遭う、という噺。
ご存じの方も多いと思いますが、これ、講釈種 いわゆる釈ネタというやつ。講談を落語に直したもの。
で、こちらに講談のあらすじが。
落語とちょっと違うところがあるのにお気づきになるだろうか。
落語と講談で登場人物の名前が違うのは、まあ置いといて、
武士二人が直接会ってる。そんで、喧嘩になる。
でも、ご存じの通り落語では、屑屋に「行かせる」。
金を受け取る受け取らないと揉めているのは武士同士なのに、直接交渉しないのです。
で、屑屋が二人の武士の間で行ったり来たりで困り果てると。
武士がその名に懸けて「金は受け取れない」というのは、別に構わない。
プライドに生きる「名を惜しむ」商売なんだから。
でもそれはあくまで武家社会の話であり、屑屋とは関係ない。
だから講談では直接会って話をする。浪曲でも同じ。
ところが落語『井戸の茶碗』では、屑屋に交渉を代理させて、武士同士の無益な意地の張り合いに巻き込んでしまっている。それも、屑屋を恐喝までして。
千代田も高木も「ダメな侍」なのだ
要するにですね。落語に出てくる千代田と高木は「ダメな侍」なんですよ。
講談(と浪曲)は、基本「ヒーローのストーリー」なので、武士はちゃんとしている。
落語は基本「人間のダメなところを楽しむ」芸なので、他の落語に出てくる武士同様に、この二人は「ダメな侍」。『粗忽の使者』に出てくる地武太治部右衛門と変わらない。
いかがでしょうか、こう考えると、けっこう納得いきませんか。
ノスタルジアと、その「裏」としての「人間のダメなところ」
じゃあなんで、多くの人が『井戸の茶碗』を「いい話」として愛好しているのか。
それは、多くの人が、落語をノスタルジアの対象としてみているからです。
『井戸の茶碗』は善人ばかりでいい話だねえ、昔はいまと違っていいねえ。と思いたい。
そういう楽しみ方を否定はしません。できません。
でも、繰り返しますが、落語はもともと「人間のダメなところを愛でる」芸であります。
言い換えると「落語は失敗のカタログ」。滑稽噺は特にそう。
「いい話」に見える落語には、実は「その裏」としてむ「人間のダメなところ」が、仕込まれていたりするのかも、よ。
ま、わかんないですけどね。「落語は失敗のカタログ」といいつつ、「落語は"例外"でできている」というのも、また事実なわけでして。
柳家喬太郎師匠の『井戸の茶碗』では、最後のほうで屑屋が千代田に「百五十両で娘を売るんですね!」と言っちゃう。絶叫で否定する千代田がやたらおかしい。
これを「現代的な演出」と捉える人がいるみたいですが、僕はむしろ「本質的」なんじゃないかなと感じている。
さらに快楽亭ブラック師匠の……。あ、これはもう、とても書けません。サゲを聴いた客が全員悪人の顔になって笑っていた、と記すにとどめる。
ちなみに僕は『井戸茶』なら、「ダメな侍に振り回される」部分を強調する立川寸志さんの型が好きです。
三遊亭わん丈さんの『井戸茶』は高木が爽やかでいい。うちの会でもやってもらいました。
というわけで最後にうちの落語会『シェアする落語』の宣伝入れておきますね。
[おまけ]次回のシェアする落語ご案内
爆笑させてもどこか涼しげ。
大人の上方落語を聴かせてくれる、笑福亭希光さんの落語を、ぜひ。