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宿命と運命の違いについて


結論、宿命はしょうがない、運命は無数

まだ「ちゃんと自分をやる」シリーズを書き切っていませんが、これは今日書かなきゃ!と降ってきた内容なので、残しておこうと思います。

タイトル通り、宿命と運命について今回は書きます。
なぜこの内容なのかというと、私には生まれてからずっと苦手というか
いつも「なんだこれ…」という結果に陥るキーワードというか、分野があるんです。(これについては後ほど簡単にお話しします。)

で、それについてお風呂に入りながらぼんやりと考えていたところ

「宿命は受け入れて向き合うしかない、でも運命は無数にあるから選べるよね…」

と、ふと降りてきました。きた、きた、きました!

宿命は宿ってるから捨てらんない

本当に字の通り、宿っちゃってるから出て行けとは言えないし、捨てらんないのが宿命です。嫌になったからもういいやができないやつです。

じゃあどうするのか。ずっと宿命に苦しんで、白旗を挙げ続けるのか、それとも「そうか、ならお前の姿見せてみろ、攻略してやる」と真っ向から向き合ってみるのか。

私は後者を選びました。それは負かしてやろうとか、「かかってこいや!」みたいな姿勢ではなく、自分が担った宿命にただ素直に向き合って、「で、君の考えは?」と話し合いをして折り合いをつけるというスタンスです。

逃げられないし、喧嘩したところで泥試合。ならば平和的解決法を取るほかあるまい、と。

運命はこの瞬間

では、一方の運命はどうか。運命はいわゆるパラレルワールドだと私は思っています。

今、私は子供がスヤスヤ寝ている横で、カタカタとPCで書いているわけですが、別の世界線ではダイニングテーブルで書いている私もいれば、今日はいいや!と書かない私もいる。もっと言えば、宿命とか運命とかどうでもいいから興味ないという私もどこかの世界線にはいます。

つまり、今この瞬間の私がどんな判断を下し、どんな行動をし、どう考えるのかによって無数の世界線が広がっていくというイメージです。

この考えを持つ私にとって、運命とは今この瞬間の自分自身です。
文字通り、命を運んでいるのは私自信なんですね。

私の宿命と運命について

私の宿命はお金と愛です。
いかにもって感じでいいいですね、わかりやすいですね、うむ。

私は子供の頃から家族、親戚、元夫から寂しさやわがままをお金で解決されてしまうことが多かったように思います。
また、子供の頃から愛情不足を感じていたせいか、お金で自分の満たされない部分を補おうとするところがありました。

また、愛情に関しても、家族(特に母親)からの関心や承認を求めていたように思います。そして、正直なところ、母親は「親としての義務」として愛してくれていたのではないかと親になった今は思っています。

友人でも恋人でも、あまりに距離を詰められると逃げる、一線を引くという回避行動に出ます。そのくせ嫌われるのは嫌なので、友人の前では「いい友達」を演じ、恋人や好きな人にはとことん尽くす、尽くし屋彼女になってしまう。都合のいい女代表ですね。

どちらも面倒なものを宿命に選んだもんだと溜め息が出ましたが、選んじゃったもんは仕方ないですよね…。

全部まるっと受け入れて自由に生きる

宿命も運命も、どちらも自分自身であるならば、否定したり無かったことにはできない。ただまるっと全部、どちらも受け入れて生きていくしかないのだという結論に至らざるを得ない。

否定することは簡単だ。こんなはずじゃなかったと後悔したり、悔やんだり、はたまた「嫌!別のがいい!」と駄々をこねてみたりしてもいい。
でもこれらは非常に精神力も体力も奪っていくから、私はあまりおすすめしない。(経験済み)

ゲームのキャラに属性があるように、宿命は自分の属性だと捉えるとまるっと受け入れるしかなくなる。

でも、一方で運命は自分で選べる。何なら自分自身が運命なのだ。
ある程度の自由と意思が反映されるのであれば、1番自分が心か向かいたい方向に舵を切ってみよう。
そして、それがどこに辿り着こうと自分で自分自身を運んだ場所なのだから、後悔はしない。

宿命も運命もまるっと引き受けて、今この瞬間をいきいきと生きられたら、きっと幸せな何かが見えてくるはず。


次回からは書き切れていない「ちゃんと自分をやる」シリーズに戻ります。
最後までお読みくださりありがとうございました!これからもちょいちょいモチベ回(?)を投稿したいなと思っております。


それでは、また!



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