瀬戸田のまちづくりから学ぶ
瀬戸田には「まち会社」があり、宿業やその他諸々を運営していた。
今回とても学びがあった、というよりも、とても大切なことに気づかされた。
それは何かというと、「ビジョンを伝える」ということだ。
まちづくりという途方も無い話に興味を示す人がいるかどうか、
私にはわからない。
瀬戸田には偶然にも、街の活性化を一度諦めるかのように商店街の組合が解散したタイミングで、大きな資本が流れ込み、ちょっと待てよと、乗っ取られるんじゃなかろうかと言わんばかりに商店街が復活し、結果的に両者が協力することで、先進的なまちづくりとなった。
その流れはとても偶然とは思えないほどストーリーがあり、ワクワクするような話だった。
一方で、三原で同じことができるかと言われれば、否。何十億という資金が流れたのは、これに関しては再現性は無い。偶然と言わざるを得ない。
だから今の三原で何ができるか。今の自分に何ができるかを考えなければならない。
実は、私がこの瀬戸田の視察で、一番感銘を受けたのは、瀬戸田の事例でも、リノベされた物件でもなく、ゲストで来られていた中国経済産業局の伊東さんという方のプレゼンであった。
覚えていることは一つ。
「大きい組織に必要なことは、規律と報酬」
「小さい組織に必要なことは、コミュニケーションとビジョン」
であるということ。
なるほどと思った。
私の思考は、どうも大きい組織寄りであったなと感じた。
そして同時に、もっと自分のビジョンを話そうと思った。
そして、今週は盛りだくさんだったのだが、
竹原市のHYPPカフェにも行ってきた。
広島県観光連盟主催のイベントだ。県内のいろんな場所で開かれている。
今回、石飛さんのプレゼンがまた良かった。
もうちょっとで泣きそうだった。広島市のサイクリングツアー、参加してみたい。歴史を伝えるって需要があるんだなと感じた。
そして、これまた広島県主催のひろしま「人・ゆめ」未来塾にも参加してきた。忙殺されていて、どこで何のどんな資料を作って提出したかもうわからなくなって、毎回その場しのぎをしてしまっている。
しかし、今回の様々な視察や講座を通して、たまたま今の自分の課題と重なったからかもしれないが、やらないといけないことが明確になってきた気がする。
それが冒頭でも述べた「ビジョンを伝える」ということだ。
私は今まで、1人でほとんどやってきた。
アフリカの言葉で、「早く行きたければ1人で行け。遠くに行きたければみんなで行け」という言葉がある。早く、行きたかった。
次災害があった時に役に立てる自分に早くなりたかった。
けど、いざ能登半島で地震があっても、今の自分に空きがなくて、結局寄付することしかできなかった。
全然心と体にゆとりがない。
今の私は、早く行くことも、遠くに行くこともできなくなってしまっている気がした。課題だと感じていたのだと思う。人の手を借りたいと、何とか協力できないかと、試行錯誤した。その度に壁にぶつかった。
もしかしたら、それは、「規律と報酬」を意識したがために発生しているのではないかと、、
もしかしたら、人口9万人もいるうちの何人かは、もしかしたらビジョンを共有できるかもしれない。
もし私のビジョンに共感していただける人がいるなら、ぜひ声をかけて欲しい。もう私は図々しくいくと決めた。
面白いと思ったら私の船に乗ってくれ。
ここからは、私のnoteをここまで読んでくださっている、少なくとも私にほんの少しでも興味を持っていただいているであろう、方々に対して、私のビジョンを語りたい。
みなさんは、まちづくりと聞いて、何を思い浮かべるだろう。
そんな神じゃないんだから、街を創造するなんて烏滸がましいと思う人もいるだろう。もちろんそういう意見もある。私もそこまで大それたことを考えているわけではない。
だけど、私には、作りたい街がある。
それは、個人商店で賑わう街だ。
戦後の日本は、個人商店であふれ、みんな家族のような一体感があった。
しかし、時代の流れとともに、大型ショッピングモールという便利なものへ全て吸収され、そして通販が当たり前になり、必要なものはネットで買う時代になった。
みなさんの中で栃木県那須塩原市にある、「SHOZO CAFE」をご存知の方はいらっしゃるだろうか。私はあの場所に、とても幸福を感じるとでもいうべきか、なんだかとてもワクワクする。「店主のこだわりのパン」「店主の好きが詰まった古着屋」「店主の思想たっぷりの古本屋」‥‥
その場所は一朝一夕でできたものではない。
菊地省三さんが、カフェを作り、その人柄やビジョンに惹かれた人たちが、引っ張られるように集まって、今や個人商店が並ぶ街ができているのだ。
私は、あの街並みを作りたい。
1人じゃ絶対に作れない。けど作りたいから仲間を集めることにした。
その作戦はこれから考えていこう。
ではまた。