3.11 復興日記③「町も医療も一歩前へ」 南三陸診療所 歯科口腔外科部長・斎藤政二 Dentist Diary ―Recovery from the Great East Japan Earthquake 2011
(文・写真ともに)
公立南三陸診療所(現・南三陸病院) 歯科口腔外科部長
斎藤政二
床屋さんも復興に一歩前進
震災から3カ月、髪の毛がうざったくなり気になっている時、ある看護師から一枚のメモをもらった。それは行きつけである床屋さんの店長の携帯電話の番号だった。ヘアスタイルはいつも同じなので、イスに座るだけで同じように髪を切ってくれる。いわゆる、かかりつけ理髪店だ。
うれしくなってすぐに電話すると、「店はすっかり流されたけど、どこへでも出張して髪を切ります」と言ってくれた。
何もなくなった町だが、ガソリンスタンドは手動ポンプでいち早く再開、その後がれきの中で青空コンビニがオープンした。そして床屋さんも裸一貫、ハサミを片手に再開したのだ。がれきで真っ暗になった町に少しずつ明かりがともり始めている。
早速、山の上の仮設診療所近くまで来てもらい、髪を切ってもらった。あまり人目につかないように、山道の少し入り込んだ所を選んで営業開始。
ワゴン車の陰に置いた折りたたみイスに、派手なオレンジ色のエプロンをつけて座る。鏡はない中、なんとも怪しい感じだと思いながらも、大自然の中の散髪は最高の気分だった。
床屋さんは、「お店もハサミもすべて流されてなくなったけど、県外の同業の友人から器具類を頂き、できるようになったんです」と話してくれた。志津川病院と同じだ。
ハサミ各種を腰のポーチに下げ、テンポよく動かす櫛とハサミのハーモニーは、いつもより生き生きとしていた。途中、散歩している犬がのぞいたが、ほえることなく行き過ぎた。ナチュラルなのだ。
散髪後は手鏡で仕上がり具合の確認を求められたが、そんなのは確認しなくともよい。かかりつけで信頼関係は構築されている。大げさかもしれないが、私の頭はこの人に預けているのだ。
2,000円を支払い、「ありがとう」と感謝を述べると、「またお願いします」と、最高の笑顔を返してくれた。
帰り際、振り返ると、床屋さんは散らばった私の髪をほうきで回収していた。その後ろ姿には、私が見込んでいるだけのまじめさが感じられ、心の中で「頑張れ」とつぶやいた。
7月12日、待望のエアコンが稼働するようになった。これまで発電機に頼っていた電気は、一般家庭と同様、電柱からの安定供給となり、発電機の爆音が消えた。窓やドアは閉めることができ、ハエの侵入は激減し、飛躍的に快適になった。
復興へまた一歩前進したのだ。
(日本歯科新聞2011年9月6日号)
車が事務室、更衣室、休憩室に
7月30日、新潟県および福島県では記録的な豪雨で河川が氾濫(はんらん)し、一部で避難勧告も出された。災害救助法が適用され、自衛隊も出動を要請された。
テレビに映し出される泥水の映像を見ると、3月11日の悪夢がフラッシュバックする。「いったい今年はどうなっているんだ」とやり場のない憤りを感じながら、事態の早期収束と現地の皆さまの無事を祈った。
8月2日、セミの鳴き声が激しい。せみ時雨(しぐれ)とはこういうことだなと、50歳を過ぎて今更ながらに思いながら、昼休み、車に乗り込む。そこで、7月の診療報酬明細書のチェックを行うのだ。
車というのはマルチなスペースだ。通常の昼休み時は休憩室、診療報酬明細書の点検時にはオフィス、後部座席は更衣室、そしてトランクは白衣などの衣装ケースや本棚などの収容スペースになる。ほかの人たちも昼ご飯を食べていたり、思い思いの時間を車で過ごしている。ガソリンを供給すれば、空調も良好で元気に活躍してくれる。
災害時には交通渋滞を招くことから自動車での避難は状況により控えなければならない。当然、今回の津波でかなりの人がマイカーを流失した。
しかしながら、仮設建設物ばかりでスペースにゆとりのない現状においては、車はかなり利用価値が高く、また、仕事をする上でも、なくてはならないものだ。被災者は生活を再建する上で、車を手に入れることから始まる人も少なくない。
そういえば、震災直後から小さな空き地には、全国から集められた販売用中古車が並んでいた。ちなみに私の車は多摩ナンバーだ。東京で開業している後輩が震災後、いち早く提供してくれたもので、感謝の念に堪えない。
プレハブ仮設診療所が始まって、3カ月が過ぎた。同じ部屋で、外科、整形外科、歯科口腔外科が同時に診療するのもいつの間にか慣れたような気がする。
ついたてだけで仕切っているだけの診療ブースでは、「お通じはどうですか?」「ずいぶん傷はきれいになりましたね。お風呂に入っていいですよ」「入れ歯は流されたの?」「骨折していますね」「ひざを伸ばしてください」「虫歯は神経につながっているから、麻酔しますよ」などの言葉が交差する。
その中でタービンやコンプレッサーなどの機械音などを発する当科は断トツにうるさい。他科の先生は、かなり我慢してくれているに違いない。
震災後、医局会を2週に一度開催し、問題があれば忌憚なく話し合い、流動的なこの状況下で何事においても、対応できるようにしている。
小さい病院の医者の少ない医局ではあるが、コンパクトなだけに震災前から団結力は強く、歯科口腔外科診療に対しても理解を示してくれる。
(日本歯科新聞2011年9月13日号)
思い出せない町の姿
震災から5カ月がたち、町を歩いてみた。
がれきはかなり少なくなり、雑草が生い茂っている。道路はずいぶんきれいになり、歩きやすくなった。震災直後は、車のパンクや、道路のくぼみによる自損事故の話もあったが、最近はあまり聞かなくなった。
がれきは金属、タイヤなどに分類され、置かれている。また、車は処分されず、あちこちに集められているが、私の車はいまだに見つからない。
海沿いにあった松原公園にはかなりのがれきが集められていた。高さ10㍍程まで積み上げられたがれきは、防波堤のようだ。
この公園は毎年、志津川湾夏祭りが開かれると、たくさんの出店が並び、ステージも設置され、人の集まる中心になっていた。1960年のチリ地震津波の被害を受け、チリ共和国との友好の絆としてチリ産の石で作られた大きなモアイ像が立っていた。その脇には蒸気機関車がどっしりと置かれていて、子供たちに人気だった。
それが、今ここに立っても夏祭りが思い出せない。モアイ像はどこに行ったか、見当たらない。蒸気機関車は道路まで流されボコボコになり、イモムシのように横たわっている。平和のシンボルともいえるこの公園が、がれきの山と化した無残な姿に言葉もない。
車で移動し、1995年の夏まで家族とともに住んでいた本浜町を歩いてみた。
この地区は、志津川漁港がある。住宅で残っているのは鮮魚店「さかなのみうら」の鉄骨ぐらいである。その鉄骨には「よみがえれ故郷」「ふんばれ南三陸町」という看板がいち早く掲げられ、ふんばろう東日本支援プロジェクトの原点になった。
がれきが片付けられた道路を歩きながら、ここが以前住んでいたアパートだとか、ここは確かによく行ったおすし屋さんだとか、確認しようにも面影は何一つなかった。
地盤は沈下している上、堤防もなく、排水も不良なので高潮や大雨の時は浸水している。本浜町という地名の由来になった本来の姿かもしれないが、本当の浜になってしまったようだ。
次に、廃虚となった病院前に車を止め、歩いてみた。病院前にはどういうわけか、「チリ地震津波 水位2.8メートル」と書かれた看板が、斜めになりながらも津波に流されず残っている。病院はあれほど破壊されたのに、こんなきゃしゃな看板が残っているのは皮肉なものだ。
駐車場には、集められた鉄パイプなどが積み上げられ、震災直後よりがれきが多くなっているが、正面玄関はきれいに片付けられている。
そして、いつ来てもご遺族が供えたと思われる花や供物などが置かれている。それらを見るたびに深い悲しみと生かされている者の使命を感じる。
もう少しでお盆だ。
(日本歯科新聞2011年9月20日号)
「雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ」
台風12号が日本列島を襲っている。
9月2日、まだ上陸していないのに台風が運ぶ湿った風は、南三陸町にも時折スコールのような激しい雨をもたらしている。降ったりやんだりの繰り返しで、雨が降り出すと涼しくなり、やむとセミの鳴き声の再開とともに蒸し暑くなる。
プレハブ診療所の雨どいの垂直部はエチル酢酸ビニール樹脂製のホースで作られているが、集中的な大雨には対応しきれない。プレハブの診療室を一歩出ると、雨どいからあふれた雨水が容赦なく待合所にいる患者さんたちを攻撃する。病を患った人たちが診療を待つ間に、あちこち雨宿りをしなければならないのが現状で、避難所がすべて閉鎖された今日でも、局面によってはまだまだ避難を迫られている。
仮設診療所7棟のプレハブをつないでいる通路は、鉄パイプの骨組みに、ポリカーボネート製の波状の板で側壁と屋根を構成され、床はベニヤ板である。プレハブのトタン屋根やポリカーボネート波板は、雨を受けた際の音響増幅効果がすごい。言い換えれば、雨粒一つ一つの力に対する音変換率が高いのだ。 ニュートンの運動方程式(F=ma)で考えれば、雨粒の重さ(m)×落下加速度(a)によって生まれた力(F)を多少の衝撃と大きな音に変換しているのであろう。
最近は、地震があるたびにその震度が体感的に予測できるようになったが、雨量や嵐の程度も、これらの音によっていつの間にか感じ取れるようになっている気がする。
ベニヤ板の床も歩く人の靴、体重、重心のかけ方などで音響が変わる。子供たちはエネルギーが余っているせいか、走ったり飛び跳ねたりすることが多いが、その時は「ドン、ドン、ドン、ドン」と太鼓をたたいているようで、Jリーグのコアサポーターの応援を彷彿とさせる。
そして、この通路はトイレまでつながっていない上、トイレの前に傘置きがないので、雨の日でも傘を使用する人はおらず、みんな必ず濡れている。 くしくも明治三陸大津波のあった1896年に生まれた岩手県の詩人・宮沢賢治に今の想いを重ねてみた。
(日本歯科新聞2011年9月27日号)
本コラムは下記の書籍に収録されています。