3.11 復興日記①「病院脱出、家族との再会、診療再開」南三陸診療所 歯科口腔外科部長・斎藤政二 Dentist Diary ―Recovery from the Great East Japan Earthquake 2011
文・写真ともに
公立南三陸診療所(現・南三陸病院) 歯科口腔外科部長
斎藤政二
発災3日目にヘリで病院脱出
4階まで津波に襲われ、今にも崩壊しそうな志津川病院から脱出できたのは、3月13日朝、6時55分だった。取り残された最後の入院患者7人をヘリコプターに乗せ、内科の管野医師が右ドア側に、私が左ドア側に位置を取り、患者を挟むように同乗した。搬送先は津波被害がなかった石巻赤十字病院だ。石巻赤十字病院まで40キロメートル。車で50分かかるところ、ヘリコプターでは12分で着いた。
ヘリコプターには生まれて初めて乗ったが、プロペラによる暴風、轟音には、あたかも台風が来たようなパワーを感じた。そんなものが、まさか病院屋上の狭いところに来てくれるとは。ダーツの名人が、中心に射止めるように屋上に着地した。
声も聞こえない状況下でパイロットが後ろを振り向いて、左手の親指を立て、離陸の合図をした。その姿は、とにかくカッコよかった。スーパーマンのようで、世界で一番輝いて見えた。
離陸し、空を飛んだ瞬間、助かったという思いがしみじみ湧いてきて、涙が出そうになった。ヘリコプターの窓から、下を見てもどこを飛んでいるのか分からなかった。今になって冷静に考えてみると、津波被害で地形が変わるほどの状態だったのだから無理もない。
石巻赤十字病院で患者搬送・引き継ぎを終わらせると、ようやくこの2泊3日、病院職員としての責務を果たしたと実感した。そして、全く連絡の取れなかった家族のもとへ向かった。私の自宅は、石巻赤十字病院より南西へ600メートルのところにある。
丸2日、ほとんど寝てないが全く疲れなど感じず、足早に自宅に向かった。白衣のうえにダウンを羽織り、所持しているのは、通じない携帯と財布、そして家の鍵だった。ライフラインの途絶えた家々は、どれも生活感がなく、何か異様な雰囲気であった。
7時30分ごろ。家のチャイムも鳴らない。しかし鍵を持って逃げて良かったと思いながら、家の扉を開けた。「ただいま」。できるだけ何げないように、しかしながら泥で汚れた白衣姿で足を踏み入れた。妻と子供たちは電気のない薄暗いリビングの中で私と目が合い、固まっていた。
震災の2日前、3月9日の昼にもマグニチュード7.2の三陸沖地震があった。この時、妻からのメールには、「地震津波災害マニュアルに従い、3階に避難しているから大丈夫だ」と伝えていた。ラジオで4階まで津波に襲われたという報道を聞いた家族は、私が死んだと思っていたらしい。
(日本歯科新聞2011年7月19日号掲載)
笑顔の再会に医療再生誓う
石巻の自宅に帰宅してから、しばらくは南三陸町に戻れなかった。私の車は仕事先で流失し、妻の車は残っていたが、ガソリンがほとんどなかったのだ。給油しようにもガソリンスタンドにもない。しかたなく、家の中で壊れた電化製品や、ガラス製品などを外に出すなどの片付けや、トイレを流すための水を用水路にくみに行ったりしていた。
近所の人たちも私が亡くなったと思っている人が多かったらしい。夕方ごろに炊き出しのおにぎりなどを差し入れて、心配の声をかけてくれたが、意外にも元気な私の存在に気づくと、すごく驚いた表情だった。
近所の方のそのような訪問があるたびに、感謝するとともに、無事であったことが少し申し訳ないくらいの恥ずかしい気持ちにもなり、ついつい隠れたくなったのも正直なところである。
そんな生活の中で、手術後創部にガーゼを挿入したままの患者や、糸がついたままの患者のことを思い、南三陸町に戻れない焦りが出てきた。結局、再度戻れたのは、3月23日だった。
車で入ると、津波被害に遭った区域から景色は様変わりする。がれきだらけで、以前の町が思い出せないほど何もない。一瞬にしてこんなふうになるのは原爆以外はないと考えていたが、津波の恐ろしさを初めて知り、自然の力と人間のひ弱さ、過去には戻れない悲惨な現状に涙が出た。
南三陸町最大の避難所のベイサイドアリーナでは、車の中で避難生活をしていた阿部公喜先生が、3月20日より訪問診療車での歯科診療を開始していた。
ベイサイドアリーナとは山の上にある町総合体育館だが、山の上にあるため、ベイサイドという名前に違和感を覚える人も少なくないだろう。しかしリアス式海岸の志津川湾沿いの山の上に位置しており、まさに山の上のベイサイドなのだ。震災当日夜のラジオ放送では、最も安全な避難所であるにもかかわらず、「ベイサイドアリーナには800人が取り残されています」と報道されていたのも無理はないが、とても印象的だった。
3月23日のベイサイドアリーナには1,500人ほどが避難生活をしており、災害対策本部や医療統括本部も設置されていた。
久しぶりに顔を合わせると、みんな「先生! 生きててよかった!」と歩み寄ってきてくれる。男性はほとんどがひげ面になっており、誰だかすぐには分からなかった。失礼だが、女性もすっぴんで誰だか分からない人が多かった。
でも、生きていれば誰でもよかった。生きていることが幸せだった。
みんなに「お互いに生きててよかったなぁ。とにかく頑張ろう」とあいさつを交わした。
そして、みんなとの再会やその時の笑顔が、南三陸町の歯科医療を再生させなければならないと、私に固く決心させたのだ。
(日本歯科新聞2011年7月26日号)
訪問車で回るも器材不足
3月25日から、津波で医院を流された開業医の阿部公喜先生、小野寺勉先生、佐藤長幸先生、そして私の4人を中心に、歯科衛生士、歯科助手、歯科技工士が集まり、共同で災害地歯科診療を開始した。すなわち、宮城県歯科医師会の診療バスをベイサイドアリーナに置いて定点治療を行うと同時に、栗原市の近藤公一郎先生や広島県歯科医師会が提供してくれた訪問診療車で、日替わりの避難所巡回診療を行った。
しかし、これらの診療車は、レントゲン撮影もできなければ、器具も満足ではなかった。診療内容は限定的で、義歯の調整や単治・EZ、そして投薬などの応急処置が中心だった。気合いを入れても、空振りをしているような気分であり、正直なところストレスがたまった。
診療バスの前にテントを張り、受付、カルテ書きを行ったが、風、雨、そして雪の日もあり、やはり容赦なしの自然の厳しさを思い知らされた。
差し歯が取れたと受診した85歳男性の左下歯肉には悪性腫瘍が認められた。連れ添ってきた息子さんに病状を説明し、東北大学口腔外科に携帯電話で連絡の上、紹介状を書いた。雪の中で書いた紹介状は、寒さで字が震えていた。とにかくやれることを精いっぱいやるしかない診療であった。
そんな中で、昼になるとみんな一緒に避難所で配給された同じものを食べ、何ともいえぬ連帯感を楽しく感じたのは私だけではなかったようだ。
「まだ、風呂も入ってない」「1週間は、下着も取り換えてない」と平気で言い合う。「震災後、キュウリばかり食べていた」という歯科助手は、「キュウリ」がニックネームになった。「家は流され、庭はきれいなプライベートビーチになっていた」という歯科技工士は、「副業で潮干狩りをやればいいじゃん」などとひやかされる。
そして、「またこんな昼飯なのー」と言って、ジャムサンドを食べる。 本当は心温まる支援で、それによってわれわれは生きていられるのに。そんなことを言ったら罰が当たると思いながらも、ワイワイと楽しい憩いのひとときを過ごした。
3月29日、宝塚市立病院からDMAT(災害医療支援チーム)ならぬDDAT(災害歯科支援チーム)がやってきてくれた。
歯科医師の門井謙典先生、歯科衛生士、薬剤師、事務職員の4人編成で、防災服を身にまとい、避難所の口腔ケア活動に当たってくれた。
兵庫県からの迅速な行動に、阪神・淡路大震災の教訓を見て感動した。
(日本歯科新聞2011年8月2日号)
本コラムは下記の書籍に収録されています。