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番外編「3.11 復興日記」1年・3年・10年後 南三陸診療所 歯科口腔外科部長・斎藤政二 Dentist Diary ―Recovery from the Great East Japan Earthquake 2011

 2011年3月11日、宮城県南三陸町にある、5階建ての「公立志津川病院」は4階まで津波に襲われ、甚大な被害に遭いました。
 週刊「日本歯科新聞」では2011年7月~2012年2月まで、歯科口腔外科部長の斎藤政二先生による、コラム「復興日記」をほぼ毎週、掲載しました。
 本コラムは「3.11歯科界の記録という書籍に収められましたが、東日本大震災から長い年月が経つ中で、より多くの方と記憶、記録を共有したいという思いから、全文を公開することにいたしました。
 本原稿は、書籍発行後に執筆していただいた震災1年後、3年後、10年後の記事をまとめたものです。
 掲載のご許可をいただきました斎藤先生には、心より御礼申し上げます。
 なお、医療施設の名称や肩書きなどは掲載当時のものです。

(文・写真ともに)
 公立南三陸診療所(現・南三陸病院) 歯科口腔外科部長
 斎藤政二

〈震災1年後〉私にとっての「復興日記」―書くことで孤独な自分を解放


「復興日記」を書き続けたパソコン


 東日本大震災から3カ月が経過した6月28日、仮設診療所を取材に来た日本歯科新聞社から、「復興日記」という連載を企画していることと、その執筆を依頼したいとの手紙が届いた。
 悩むことなくその申し入れを承諾し、休日になると早朝から原稿を書き始めた。部屋のカーテンは閉め切ったまま、机の電気だけをつけて、引きこもりのようにパソコンに向かっていた。震災後の記憶は鮮明で、キーボードを打ちながら、涙が出てきて書けなくなることもあれば、思わず笑ってしまうこともあった。
 いつしか日記の中に吸い込まれ、その中に自分がいた。それはまるで、映画「ネバーエンディングストーリー」(ミヒャエル・エンデ作「はてしない物語」)の主人公のようであった。

 秋になると講演依頼も入るようになったので、執筆をやめようかと思った。しかしながら半年が経過しても復興はなかなか進まず、また徐々に全国からの反響が伝わってくる中で、せめて1年は継続しようと考え、一時中断をしながらもつたない文章を書き続けていった。
 結果的に1年間書き続けたことは、自然災害をきっかけに始まった生活を、春夏秋冬という流れの中で等身大に表現できたため、とても良かったと感じている。日記だからこそ表現できたこともあり、それを読んでもらうことで孤独な自分が解放されていくことが、とりわけうれしかった。

 2012年3月11日、東日本大震災犠牲者南三陸町追悼式に参列した。会場となったベイサイドアリーナには、全国から多くの人が集まっていた。
 1年前とは大違いで、当たり前のように女性は化粧し、男性はひげをそって身ぎれいにしている。津波ですべての服を失った人たちは、何はなくとも黒の礼服からそろえていったということを、少なからず聞いている。それは、生き残った者が犠牲となった方々に対して常に抱えている気持ち、追悼への強い想いの表れだ。

 式が終了し、会場を出ると、復興日記「笑顔の下の深い悲しみ」で紹介した女子高生がいた。彼女は小さいころから母親に付き添われ、う蝕治療や矯正治療を公立志津川病院で受けていた。震災直後、避難所で「お母さんどうした?」と聞いてしまった私に、「アウトでした」と笑顔で答えた本人である。
 その後、新聞やテレビの報道で知った。一緒に逃げていた最愛の母親が目の前で津波に流され亡くなったこと、言葉も出ないくらいに落ち込み、つらい日々を過ごしていたことを。あの時の私の一言がいかに残酷だったかを思い知り、とてつもない罪悪感で、この1年間ずっと自分が許せなかった。
 やっと再会できた彼女のもとに駆け寄り、「震災直後、お母さんが亡くなったことも知らず、本当に申し訳ないことをした。ごめんなさい」と謝った。1年たって、ようやく自分の気持ちを伝えることができ、少し救われたような気になった。
 しかし彼女はまた、あのときと同じ笑顔で「ゼンゼン、ダイジョウブです」と答えてくれた。その瞬間、私の罪悪感は一気に爆発、同時に彼女の深い悲しみの中からわき出た真の優しさを感じ、涙がこみ上げてきた。
 彼女はこんな私に、この春高校を卒業し、東京の学校への進学が決まったことを話してくれた。彼女と固く握手をしながら、「おれには何もできないけど、がんばれな」と、せめてそう言おうとしたが、最後は、震えてまともに言葉を発することはできなかった。

 カーテンを閉めた暗い部屋で1人、キーボードを打つ手が止まり、涙でパソコンがゆがんで見える。気軽に引き受けた「復興日記」は、書き始めると時間の流れから独立し、過去と現在の自分を同化させる魔法のようなもの、パソコンの前に座ると展開する「ネバーエンディングストーリー」であった。

(日本歯科新聞2012年5月29日号)


〈震災3年後〉鈍化しつつある復興―医療提供が不足


 南三陸町における都市計画基本方針は「低地に住まないで高台に移転する」ことである。
 津波という自然災害により町を失った人間は、安住の地を求め、自然を破壊していかなければならない。

 公立南三陸診療所の東側の山では、新病院のための土地造成工事が行われ、ショベルカーやブルドーザーは昼夜に関係なく、うなり声をあげている。この造成工事は、昨年(注:2013年)7月末から始まった志津川東地区の津波復興拠点整備事業で、災害復興住宅や役場庁舎も配置される予定だが、病院の土地造成が最優先で進められている。
 診療所2階の窓から工事現場を観察していると、広大な自然の中で活動しているショベルカーなどは、まるで蟻が巣作りのために土を運んでいるように見える。気が遠くなるような光景だが、本設の公立志津川病院は今年(2014年)8月に着工、平成27年(2015年)秋に完成の予定だ。

新しい病院の土地造成の様子

 山を削って出た土は、地盤の沈下した旧市街地に運びかさ上げに使われる。土地造成とかさ上げ作業は同時に進行しているため、あちこちでトラックの往来があり町中土ぼこりだらけになっている。津波が遡上した3本の川には高さ8.7メートルの堤防がつくられることが決まったが、川と川の間の堤防に挟まれた場所が堀の中の町にならないように、それに見合ったかさ上げが必要になる。津波浸水区域では、産業や観光機能などを集約し新たなにぎわいを創出するとともに、公園や緑地ゾーンも設ける計画になっている。

 旧市街地を貫く、海抜1メートルの国道45号線を走りながら、運転席から見える瓦礫のなくなった景色は、以前の町を思い出せないほど見晴らしがよくなった。震災前は道路沿いの家しか見えなかったはずが、今では海も山も遠くの信号も見ることができる。その中で、圧倒的な存在感を示すようになったのは、ほぼ等間隔にならんだ新しい電柱だ。約13.5メートルの高さでそびえ立ち、その上に黒い電線を張り巡らせて「あの時の町はこの辺まで水没した」と物言わず語っている。


防災対策庁舎の骨組みが残る旧市街。新しい電柱ばかり目立つ


 被災地での生活状況を振り返ると、震災後1年は劇的に変化したものの、その後あまり改善しないまま長期化している。これらの影響は、さまざまな問題として表面化していることが、患者との対話や歯科診療を通じてわかる。
 むし歯を多発し治療に来る子供たちが、明らかに以前より太っているのは、運動する場所がほとんどない問題と無関係ではないだろう。そして、狭い仮設住宅で暮らすことや新たなコミュニティーになじめずに孤立することで、ADLの低下や認知症の発症や悪化を来す高齢者は、これからも後を絶たないと思われる。

 また、医療上の問題点も大きく三つがあげられる。
 まずは、医療提供不足。
 震災前は人口1万7,666人に対して医科6、歯科5、公立志津川病院の合計12施設が存在したが、現在は1万4,643人(平成26年1月)に対して医科2、歯科2、そして公立南三陸診療所の合計5施設しかない。
 次に、町民バスは運行しているものの、交通手段に乏しく、通院困難者が多いということ。そして、町内に入院施設がないことである。入院のためには、30キロ離れている近隣の登米市まで山を越えて行かなければならない。
 行政および医療機関が全滅した町は、いまだに商店や住宅も含めほとんどが仮設で、いわば町自体が仮設の「南三陸仮設町」といっても過言ではない。真の復興を実感するためには、町の作成した震災復興計画でも後4年が必要とされ、これからの長い道のりを感じる。

 身の回りの諸問題をあげれば枚挙にいとまがないが、「石の上にも三年」ならぬ「被災地の生活にも七年」と覚悟を決め、蟻のようにコツコツと努力しながら復興への道を歩いて行こうと思う。

(日本歯科新聞2014年3月11日号)

〈震災10年後〉心の復興は永遠にない

津波被害とまちづくり

 人口1万7,666人(2011年2月)の小さな町、南三陸町。
 漁業をおもな生業としリアス式海岸にある地形から、河川により侵食された狭い平地に町民の営みは集中していた。自然の恩恵を受けながら平穏な日々を過ごし、千年に一度の天変地異は想像すらできなかった。
 しかしながら、あの日の津波は町の中心部を破壊し多くの命(死亡・行方不明831人)を奪っていった。全ての医療施設を破壊し、町役場、警察署、消防署などの中枢機関も壊滅させた。
 変わり果てた光景は筆舌にしがたいものになり、絶え間なく流れていた時間さえ止まったように思えたが、医療を含めた町の中枢機能は、途絶えることなく、町民の避難所生活が始まった。
 道路の瓦礫(がれき)が除去されると、外部から次々と支援物資が運び込まれるようになった。道路の傍らに電柱が等間隔に立てられたかと思うと、その上部に電線が渡り、震災1カ月後に電気が開通した。水道の復旧には5カ月を要したが、随所に設けられた貯水タンクに町外からの水が供給され、仮設の町は徐々にできあがっていった。

 仮設から再構築するまちづくりは、あたかもジグソーパズルを組み立てるかのようであった。作り上げなければならないデザイン(復興計画)を参考に、多数のピースをはめていく。10年をかけて仕上げる予定で、最初に外枠を決めてから、次々とそれにかみ合うピースをはめ込んでいく。とりわけ最優先にされたピースは病院だった。
 震災から4年9カ月後、南三陸病院。
 5年後、地方卸売市場(通称、魚市場)。
 6年後には、「さんさん商店街」、災害復興住宅、町役場とできあがった。
 そして8年後、消防署の庁舎が完成したが、警察署は10年を経過しようとする今もプレハブ仮設のままだ。

震災翌日の朝、病院5階から撮影した町の様子
同じ位置から撮影した現在の写真。防災対策庁舎の周囲は復興祈念公園となった。右上に13メートルかさ上げしたところの商店街が見える

 絶え間なく、そして昼夜も問わず復興工事は行われてきたが、これだけ時間がかかるのは、土地の造成を要したからだ。津波被害の教訓から、8.7メートルの防潮堤が築かれ、道路の高さは11~13メートル、「さんさん商店街」などの商業地は13メートルにかさ上げされた。
 それにより震災前の町は、地下に埋没して幻となった。住宅地は山を削り19~60メートルの高台に造成した。住むところを追われた鹿たちは時々その姿を現すようになり、交通事故の原因にもなっていた。防潮堤の高さ8.7メートルは、比較的頻繁に来る津波(L1)の平均値プラス1メートルで、住宅地の19メートル以上というのは、東日本大震災のような大津波(L2)でさえも避難しなくとも良い所という設定である。
 数え切れないほどのトラックが往来し、アリが砂を運ぶように地道な作業を目の当たりにしてきたが、そのお陰で今となっては津波警報が出てもほとんどの町民は避難の必要なく、安心して過ごすことができる。
 町の策定した復興計画は今年度で終了し、土地造成を含めた立体的ジグソーパズルはほぼ完成したといえる。それぞれのピースは硬く組み込まれ、その結束は多少の揺れでは崩れない。何より津波対策には、長い歴史からの教訓が生かされており、万全といってよいのではないだろうか。

 人口減少と地域包括ケアシステム

 人口減少と少子高齢化は震災で加速した。1月の住民基本台帳によるデータでは、人口1万2,404人で震災前より5,262人(29.8%)が減少し、高齢化率37.5%となっている。この傾向は震災直後より鈍化してきているものの今後も続くだろう。
 佐藤仁町長は「人口減少を避けることはできない。それを勘案してまちづくりをするのが創造的復興」であり、「インフラを大きくするのではなく、小さくすることも、なくすことも、その自治体の未来にとっては創造的復興である」と表現している。まさに身の丈に合った、持続可能なまちづくりを目指している。

 そういった中で、新しい町の地域包括ケアシステムづくりが進んでいる。震災前に唯一存在した公立志津川病院は、南三陸病院として生まれ変わり、総合ケアセンターとともに同じ敷地内に整備された。これによって、医療の再生とともに、保健、福祉の一体化が具現化されたが、個人診療所は、震災前の11施設から3施設(医科診療所は6から2、歯科診療所は5から1)へと減少した。
 プライマリケアの最前線を担う診療所の劇的な減少は、町民ヘルスケアサービスの低下に直結し、慢性的に医師不足に悩む地域病院にとっても大きな負担となっている。小さな町でのコンパクトな地域包括ケアシステムは、多職種が「顔が見える関係」にあり連携しやすいメリットがあるが、その構築には今後も進行する超高齢化とマンパワー不足に立ち向かうための創造性がとりわけ必要になる。

心の復興 医療の復興

 60歳を過ぎてから、もの忘れが多くなり、新たなことは覚えにくくなってきた。記憶は、そうして人の脳からフェイドアウトしていくのだろうか。
 しかしながら、忘れてはいけないこと、絶対忘れられないことがある。それらが脳ではなく心という概念に刻まれるとすれば、心の復興はあり得ないのではないだろうか。
 理不尽に身内の命を奪われた遺族の心には、いつになっても癒えることのない傷が刻まれたに違いない。命を守るべきところで74人もの犠牲者を出した公立志津川病院、そこで生かされた私にとっても、心の復興は永遠にあり得ない。

 震災直後から「5年で再生、10年で復興」と目標を掲げ、医療復興への道を走り続けてきた。10年もすればゴールにたどり着くと信じていた。しかしながら日進月歩の医療界において、その間の医療発展はめざましく、求められる医療水準も上がっている。
 新型コロナウイルス感染症のように、新たな対応をせまられる場合もある。ゴールに近づくと、磁石の同極どうしが反発するように、そのゴールもまた前に移動している。
 「医療の復興に到達できるゴールはない。それでも医療人は、足を止めることなく走り続けなければならない」。
 震災から10年が経過しようとする今、山積された課題を抱えながら、そう考えるようになった。

(日本歯科新聞2021年3月16日号)

2011年7月19日~2012年2月28日掲載までの「復興日記」は下記の書籍に収録されています。


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