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自己分析#11「好きって多分面倒臭い」

喧嘩を売るようなタイトルになってしまったかもしれません。頭の中がワーーッとなっている感じがそのまま出てしまっています。

このワーーッを解消したいのでガーーッと書いてみます。

ちなみにここでいう「好き」は…うーん…まあいろんな意味でのそれです。そしてそこに「面倒臭い」というワードを持ってきたのにも一応の理由はあって、「好き=面倒臭い」という持論には大きく2種類の説があるのかなぁなんて思ったりしています。

これから書くことはあくまで私の、今の持論ですよ。

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「自己否定が面倒臭くなった時、それはもう既にその対象を好きになっているってことなんだろうな」説

私は昔から、私自身に関するポジティブな投げかけへの対応力がてんでありません。いわゆる(?)褒められ下手。好かれ下手。好きとか嫌いとかじゃなく、へたくそ。どうしたらいいか分からなくなる。

確かに、褒められると嬉しい。好意を向けられると嬉しい。それはそう。そうなはず…なんだけど、私のこの根っからのネガティブ精神が、それをそのまま受け取るのを許してくれない。投げてもらったボールを「えー?ほんとー?ありがとー!!」と軽快に投げ返せたら生きやすそう。いいなぁそういうの。だけど私はかなりひねくれた見方をしてしまう。簡単に言えば疑り深いんですね。だってこの世には「社交辞令」というものが存在するでしょう?怖い…怖すぎる…

ガードが固い自覚はあります。人との間に分厚い壁をすぐ作るし、簡単に心を開かない。人見知りで、自信がなくて、自己肯定感が低くて、そのわりに自意識だけは過剰。どうしたものか。


褒められるのが下手ならば、褒めるのも当然下手で。気を遣えなくて自己嫌悪になるし、いろんなことに気付ける人間になりたかった。「あの時こうすれば…」が多すぎる。この話はまたちょっと方向性が違ってくる気がするのでここらへんでやめておきましょう。


まあだからあれです。そーんな私が誰かからのポジティブな気持ちを素直に受け入れるってよほどのことなんです。そしてこれ、一度受け入れたらそれまでとは打って変わってもーーーどっぷりと信じます。多分。

その差というかきっかけというか、それってなんだろうなぁと。

好きになる決定的な何か。

データは決して多くないけれど……相手からの何かしらの特別感を自覚した時にそうなるというのはあるかもしれない。相手の「わざわざ」に気付いた時に「おっ…?」と思う…かも?

あとは、自分でひそかに認めている数少ない自分の一部(まあ今パッとは思い浮かばないんですけども笑)、そこに気付いてもらえて、さらには認めてもらえたりしたならば、シンプルに「すごい…」となるし、多分泣くほど嬉しい。


基本的にパニック状態なんです。なにせ思い当たるふしがないに等しい。私のどこをどう見たらその感情が湧き上がるかがさっぱり分からない。私である必要性、私に「わざわざ」を提供する理由やメリットがどこにあるんだろうと大混乱。

ネガティブな地盤があるから、褒められたり優しくされたりすると「私みたいな人間にも優しくしてくれるのかこの人は…」となりますし、そして(なんだかもうある種の防衛機制のようなもので)「うそだ~、そーんなことあるわけないじゃないですか私なんかに…少なくとも特別私にってわけではないじゃないですか…ですよね?ね?」ってどうにかこうにか相手からの好意を否定してなんとか自我を保っているところがある。気がする。あれこれ…我ながら結構失礼なことしてる…?


多分私は、私がネガティブ思考に陥るより先に笑顔をもたらしてくれるような、私が私を否定し始める前に私のことを肯定してくれるような、そういう人、もの、存在に弱いんです。それはなんか…うん、経験上そうなんだろうなと分かりつつあります。

相手からのポジティブな言葉や態度、そして自分自身を「そんなわけない、だって私は~~だから」と脳内で否定する……前に、ぐうの音も出ない肯定の言葉を投げてもらったりしたら私はもう泣いて心を許すんです。

うーん…これはもはや観念する感覚に近いのかもしれないなぁ…あまりに的確に肯定してくれるものだから、いちいち否定するのが面倒臭くなって、なんかもういいやーっていうのが「さすがに心を許してもいいのかもしれない」という気持ちに変換され、さらにそこに特別感を抱いてしまったらばすぐさま「好き」にアップグレードされる感じ。というかもう好きになってる感じ。自分でも何言ってるか分からなくなってきましたね。


とりあえずこの説(節)の締めとして「はて…ぐうの音も出ないほどの肯定の言葉とはなんぞ…?」という方へ向けて、私が思う最上級の肯定語をシェアさせていただきますね。言葉というか歌詞なんですけども、BUMP OF CHICKENの『新世界』という曲にある〈なんだよそんな汚れくらい  丸ごと抱きしめるよ〉。これです。ほら、ぐうの音も出ないでしょ?これです。

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「面倒臭いことでもやってしまいたくなる、好きなもののためならなんとやら」説

こちらの説はもしかしたらよくある思考回路なのかもしれないですね。ただ、私は最近になってこのことに実感を持てるようになってきた気がします。

自分で言うのもなんですが、わたくし、大学の頃授業で私の(私の)「面倒臭がりな性格」を題材にクラス全員(約60人)で対応策を検討する、という新手の公開処刑を受けたくらい面倒臭がりなんですね。(あの時の恥ずかしさといったら…苦笑)

だけど最近、平時ならば「面倒臭いなぁ…」と思うものでもやってしまいたくなることが「好き」ってことなのかなぁと思うようになってきたんです。言葉を変えると「手間をかけたくなっちゃう」感じ。ああそれこそ「わざわざ」を提供したくなる感覚。

というのも最近はほんと、好きなことしかやっていなくて。それも色々と。考えてみればまあまあの作業工程あるんですよ?だけどやりたくなる。苦ではない。むしろ楽しい。好きだからやっている、あるいは好きなものや人のためにやっている。やってしまえる。はあ楽しい…

ただこれ、そうすることで相手(がいるならば)に「面倒臭いなぁ…」と思わせてしまったらそれは押し付けでしかないわけで。これだから人間は難しいなと思います。


前の説(節)で多くを語りすぎてしまったため語彙がカラッカラです。バレてます?おかげさまですっかり頭の中のワーーッもなくなりました。めでたしめでたし(?)

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書きながら思ったんですけど、自分が何かを好きだという感覚は知っているはずなのにいざその感覚が自分に向けられると訳分かんなくなるのちょっと面白いですね。自己肯定感が低いとここまでこじれるようです。

いや~好きって面倒臭い。多分。

ではまた。

↓私をぐうの音も出なくさせてくれる肯定曲↓
https://youtu.be/IQOhCvlkYps
BUMP OF CHICKEN「新世界」MV
(BUMP OF CHICKEN公式You Tubeより)
(またこのMVもキュートでクールで大好きなんだあーーー)

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