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海に行くとはどういうことか(古賀及子のエッセイ)

 「海に行く」とは、海に行くだけのことではないように思う。
 幼少のころ、神奈川県の葉山市に縁があり毎夏葉山の砂浜で遊んだ。水着になって浮き輪を持って行って波打ち際で水遊びをして、海の家で焼きそばやかき氷を食べ、砂浜で山を作った。足がじゃりじゃりになる。海水で洗っても砂浜を通ってしか家には帰れないからどうしてもじゃりじゃりだ。海の家のシャワーを使う。足の砂も洗う。けれどまた砂浜を歩くからじゃりじゃりになる。
 もう少し大きくなったころには当時住んでいたマンションの仲の良い家族たちでそろって何度か潮干狩りに出かけたこともあった。父と私が勇んで貝を集めていると、近くで遊んでいた慣れたらしい人に「それはばか貝だから、採っても仕方ないですよ」と言われた。あちゃーとはなったけれど、ぐにぐにした濡れた砂に埋まる貝を探すこと、やたらに興奮して楽しかった。
 「海に行こう」と誰かが言ったとき、それは「海」へ「行く」ことを直には指していないのではないかと私は訝しんでいる。海水浴や潮干狩りの思い出は、いわゆる「海に行く」ときの海とは、ちょっと違う気がしている。

 「国語辞典ナイト」というイベントに司会として携わっている。
 国語辞典を、使う以上に楽しもうと推進するイベントだ。出版社ごとの辞典の内容の違いを味わったり、言葉を引くだけではない国語辞典の面白みをプレゼンテーションしたり(挿絵や付録など味わい深い見所が辞書にはたくさんある)、国語辞典にまつわるさまざまなお仕事のゲストを招いてお話を聞いたり、かかわる私が言うのもなんだけど、10年続く大変な人気イベントだ。
 2024年8月にはその第20回が行われた。ゲストは『岩波国語辞典』第8版編者の柏野和佳子さん。
 前半にお話を聞かせていただいたあとで、後半に「語釈を書こう」という来場者参加型のワークショップを行い大好評だった。お題としてある言葉を提示し、その言葉の意味を自分なりに国語辞典の語釈らしい文体で書いてみる、というものだ。
 イベントのレギュラーメンバーには『三省堂国語辞典』編集委員の飯間浩明さんがいらっしゃる。自分が書いた語釈をプロのおふたりに挑戦するかのように見てもらえるわけで、そんなのはちゃめちゃ興奮するだろう、という趣旨だ。
 お題はすべて柏野さんが用意してくださり、そのうちのひとつが「ごはん」だった。回答は会場と配信観覧の参加者たちからフォームへの入力を通じて続々と集められた。
 「白米などの穀類を炊いたもの」、「食事を丁寧に表した言葉」等々、様々な語釈が投稿され興味深い。柏野さん、飯間さんのおふたりが唸ったのが「ペットの餌」で、なるほどペットに与える餌のことを、もはやあまり声に出して「餌」とは言わない。飼い主のご飯と同様、ペットが食べるのも「ごはん」だ。
 ところで、柏野さんには「ごはん」が「ごはんに行く」と使われたとき、どこかへ行って食事をするだけじゃない、「関係を築きたい人と会う」ことが含意されるのではという出題の意図があった。そういった回答もいくつか寄せられ、なるほどと思わされる。
 用もなくただなんとなく友人を誘うとき、私もたいてい「ごはん行こうよ」と声をかける。実際、それで会ってご飯は食べるわけだけれど、「ごはん行こうよ」と発声した際の気持ちに、空腹を満たしたい、栄養をとりたい、ただ何かが食べたい意思はほぼ無い。ここで私が望むのは、気楽なコミュニケーションの時間を持ちたい、だ。

 「お茶しない?」の「お茶」や「今度、食事でもいかがですか」の「食事」にも同じ気配はあるけれど、「ごはん」は丁寧語の味わいが、より「ごはん」の食事としての意味合いを漂白し、純粋にコミュニケーションの側に寄せる感じがする。
 どういうわけか、「メシ行こう」になると一転、コミュニケーションよりも食欲を満たす方に比重がかかる手触りがある。イベントでもさまざまに語られ、言葉の興味深さが深まるばかりであった。

 海の話だった。「海」も「ごはん」と同じ側面があるのではと思うのだ。
 「海へ行こう」と言ったとき示すもの、それはただ海という場所へ行くことではない。
 「海へ行こう」の奥には、海へ行くことを超える期待や希望がありはしないか。
 たとえば向かう先が真夏の海辺のときの「海に行こう」には、「なんかこう、いい感じではっちゃけようや、俺たちの青春をよう、形にしようや」の意味があると私は思う。ちょっと悪だくみすらする。
 ぱっとしないふさいだ日々が続いたある日の夜の「海へ行こう」であれば「波の音を聞いて心を落ち着けよう、私たちはきっと大丈夫だから」と、癒しを求める意味が沸き立つ。
 多感すぎるか、でも、海ってそういうものではないか。
 「ごはん」に宿るコミュニケーションの意味のような輪郭線のはっきりした話ではない。もっとずっとゆるやかな感覚による、単に海が内包するシチュエーションの多様さの話かもしれない。海に慣れない私にとって、それくらいの期待とロマンと底知れない気分が「海に行こう」にはある。
 かつて幼少の私が行ったのは、海というより、海水浴で、潮干狩りだった。砂で足がじゃりじゃりになったり、ばか貝を集めた、あの思い出の海の景色も大切だけれど、「海へ行こう」にはどうも繋がらない気がする。これはどういうことだろう。「海へ行こう」がその精神性を背負ったまま「海へ行った」へ着地するには、なにが必要なんだろう。

 このあいだ中学生と高校生の子どもと私の3人で旅行に出かけた。途中、熱海で時間調整をする必要があった。子どもたちに「海に行こう」と声をかけた。
 このときの「海に行こう」の意味は「なんかこう、いい感じではっちゃけようや、俺たちの青春をよう、形にしようや」でも、「波の音を聞いて心を落ち着けよう、私たちはきっと大丈夫だから」でもない。
「 『海に行こう』の持つ、海の謎を解明しよう」これだ。第三の海である。
 夏休みだった。どこまでも遠く晴れて縦に縦に空がずっと青い。その分しっかり気温も高く、そして熱海の海辺は思った5倍、駅から遠かった。子どもらは文句を言うこともなく、あとで登って戻ることになる急坂を下ってついてきてくれる。
 砂浜の手前にローソンがあって、アイスコーヒーを買い、3人、飲んだ。砂浜を眺めた。多くの海水浴客が浜辺にパラソルを立て、波打ち際には水遊びをする人が大人も子どももたくさんいた。
「海だ〜」「海だ」「海だな〜」と私たちは口々に言い、アイスコーヒーを飲む。「海だ」「海だね」「海だ〜」何回か言った。海と私たちの写真を撮った。
 もしかして私の考える「海に行く」とは海に意味を見出すことだったのかもしれない。青春を形にしたり、心を落ち着けたり、海を海としてきっぱり認識したりする。
 海とは、意味のことなのだ。


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