鹿田、書きたいだけ書く!
すしざんまいならぬ虫三昧の日々を過ごしている僕である。休みとあらば前日に天気をチェックし、晴れたならカメラのバッテリーを充電し、らしからず準備万端で虫撮りに挑む。そんなこんなでずっと虫づくしの日々で、noteなんてすっかり忘れていた。
ま、それでいいのだ、僕にとってnoteとは己を充実させる、一つのツールでしか無いのだから。かといって飽きるとは対象的にしっかりとここ数日の内、執筆欲は知らず識らずのうちに溢れていた。ということで今日はまた執筆の欲望のままに思う存分記事をかきあげていきたい。
いつものごとく、ネタは持ち合わせていない。しかし虫撮りや読書などのインプット期間を経て何かしら僕のうちで生み出されたものはもがき喉元から這い上がろうとしている。だけどきっと滑舌の悪い僕の口じゃ、それらを満足させることはできない。故にそれらをもう一度ごくんと飲み下げて、十指の末節に行き渡らせて、ようやく物語は始まる。
鹿田です、よろしくね。
といいつつ物語とてこれから鹿田の脳内でつくるものだからそれがフィクションだかノンフィクションだか定かでない。もともと文さえかいていれば満足の鹿田なのだからそもそもジャンルに対して興味がない。今はただ類語辞典を引きながら(薄い紙を指でめくって探す)伝えたい言葉を選んでは綴っていく。それだけで僕は幸せな気持ちになるので永久機関にさえなれそうだ。まだ買ってひと月ほどの類語辞典は、ここのところnoteをサボっていたこともありまだ真新しい辞書の匂いがする。特にこの梅雨時期のそういったページとページの間の折り目に鼻を押し付けて嗅ぐそれが僕はすきだ。辞書に挟まれた両の頬に伝わる冷たさも心地良い。そして僕は目を閉じて、その匂いにトリップしながら使い古してくたくたになった類語辞典を想像する。僕がnoteにひと記事上げるごとに、それはまるで五劫の擦り切れ如く、気づかないうちにゆっくりゆっくり馴染んでいく。辞書にも個性は出るのだろうか。出たら嬉しいな。
などと考えている静かな休日。しかしほとんどの人には平日で、僕の住んでいるど田舎の家の側道にも10秒に1台くらいは車が走る。虫やカエルは鳴かないが、ピヨピヨピヨコーチャコイと鳥が時たま鳴く。僕は休日となるとだいたい朝はしっかり寝坊をするので朝食はとらない。そして今頃(11:00)になってお腹が鳴る。グウ~。せいぜいそのくらいだ。
しかし僕はその静かな田舎が好きでたまらない。音の比率に自然が圧倒的に勝っている世界が好きで仕方ない。都会の喧騒より、季節ごとに変わる鳥や虫の音の方がいい。今日も多分、もう少ししたらカエルも鳴くだろう。そしたら僕は正座してその輪唱を聴く。僕の神様はスイカ神だが、師匠はカエル様なのである。僕の理想は晴耕雨読。そしてなにものにも心を脅かされず、泰然自若としていたい。僕はずっと僕でありたい。
腹のカエルがうるさいので食パンを一切れ持ってきた。焼くのもめんどくさいのでそのまま食うことにする。
うめ。
天気予報の幾ばくかの誤差を期待して、ちらちら空を覗いてはアクションを起こしているのだが、空は知らぬ存ぜぬで白い布団を被って音沙汰なしである。今日は空のやつも寝坊を決め込んでいるらしいのでこれ以上何をやろうが無駄だと早々と鹿田は悟る。それでもここ3回ほどは天気予報を気持ちよく裏切って晴天の休日が続いたのだから、ま、せめて感謝の意は示さなくちゃね。ゆっくり眠って次の休みには顔を出しておくれよ青空。
さて視線をPCに戻す。食した食パンが胃に満ち鹿田自身も多少の眠気に誘われる。けれどもここで昼寝をしてしまうと寝起きに血流が坂東太郎・利根川如く、うねり暴れ、頭痛待ったなしなので、仕方なくまだ起きていることにする。コーヒーでも飲むか。
曇天も悪くはない。とりあえず悪くはないと己に言い聞かせることはできる。僕はたしかに夏の図書館で読む本も好きだが、曇天や悪天の日の風雨に震える屋内で読む本も嫌いではない。読むべき本は限定されるが。
やはりそんな天気の日ならホラー小説か、もしくはどきどきわくわくの冒険小説なんかもいいだろう。子供の頃の僕はよく悪天候になるとカーテンに包まっては本を熱心に読んだ。勿論夏のことなので汗をびっしょりとかいては汗疹を増やし、それでも楽しくてやめどきが見つからなかった。その性質は今でも変わらず、そんなときホラー小説を読むことは今でも大好物である。大人になって読んだ本ではやはり京極夏彦の巷説百物語シリーズが一番お気に入りであった。特に世界観にトリップしやすい小説なので、チリーンという鈴の音が耳元で聞こえた気さえした。今年の夏、読み返してみるのもいいかもしれない。昔買った本なんて何処に置いたか到底覚えていないので買うしか無い。けれどもう文庫にはなっているはずだから、いっその事、全巻揃えてしまおうか。そうして悪天候の日だけ読む本を決めておくのも悪くない。京極夏彦の本て、見た目厚くてt重厚そうだけれど読み始めたら最高のエンターテイメントなのだ。それにある意味どストレートの夏本でもある。失念してたわ。
ああ、今年の夏の楽しみがまた1つ増えた!
楽しみとはいくらあってもいいものである。僕のもうひとりの師匠(こちらは狸)、下鴨矢三郎先生も仰っている。
と。これはまた僕の座右の銘でもある。楽しいこと、面白いことはいくらあってもいいのだ。逆にそんなものが1つもなければ、路頭に迷うことは容易い。人生に意味がないのならば己で創造すればいい。価値観はひとそれぞれ、正解なんてない。と、何度も自分に言い聞かせていけば、だれでもきっと自分にとって大切な面白きことは見つかる。人生は、面白くていいのさ。
いつかも引用させてもらったが、それはセカオワのサザンカのサビにも通ずるところがある。僕はあの歌詞が好きでたまらない。もともと、僕は音楽といえばその曲調に一目惚れして好きになっていくパターンがほとんどだったのだが、セカオワといえばその歌詞に惹かれてファンになった。(なぜセカオワが今出てきたかと深層心理に尋ねれば、容易い話、昨日スマホの写真を懐かしんで見ていたからだった。以前行った、タルカスやインソムニアトレインの写真が出てきて、昨日からずっとセカオワを聴いていた。ここ最近セカオワなど全然聴いていなかったのだが)
再び引用させて頂くと
僕は本当この歌詞が好きで、なんどコロナ前カラオケで歌ったかわからない。どんな人のことも背中を押してくれる、やさしく肯定してくれる素敵な歌詞だと思う。好きなことを好きと言える、否、好きなことを好きとわかる、ことさえ難しい人もいる。
僕もその一人だったから。
僕は成人しても尚全くもってアイデンティティの確立が難しかった。自己同一性と簡単に言うがと僕はもがき続けた。その頃の僕は好きなものも何もわからなかった。唯一好んで行う読書も、他にすべきことが無いからしているのかもしれないと、己の好みさえ怪しかった。現に僕は本当に、読書以外の時間の過ごし方が分からなかったし。
それにその頃の僕といえば「好きな季節は?」と問われて「冬」と答えるクソであった。
なぜ冬と答えていたか。その理由は情熱的な夏より、冷めた冬のほうがかっこいいと言う理由である。その他も全て自意識過剰に、その上自己肯定感など0を下ってマイナスに近かったものだから、とりあえず、兎に角と”普通”で身を固めていた。異端と見られることが怖かった。そうした日々を送る中で個性は麻痺し自我は遠のいていった。
ましかし読書は本当に好きだったのである。今ならば堂々と言える。その延長で文を書くことも好きだった。我が深層心理は屈託した鹿田に飽き飽きして手を差し伸べた。そのたったひとつのきっかけがここまで僕を連れてきてくれた感がある。
今でも覚えている。小学3年のとき、詩を書く授業があった。
詩をつくったら先生にみせて評価をしてもらう。僕は恐る恐る先生に持っていった。すると先生が意に反したことを、口から出したのである。
「あんた、すごい詩かくね」
たった一度の、小学3年の担任の先生の一言が、時を超えて僕の背中を押した。
詩を書こう。
そして僕はFC2のブログで銀河と四季の道標というタイトルで、好きなだけ詩を書いてはアップした。楽しくて仕方なかった。鹿田だけに。
やがて詩を書いていく中で僕は本当に好きだった季節を見つける。僕はいつの間にかそれはそれはたくさんの詩を書いていたが、その殆どが夏の詩だった。それに気づいたとき、目頭が熱くなり、僕は泣いた。
その時の目頭の熱は、今も胸に残り、すでに僕のエンジンへと成り代わっている。夏がある限り、夏を思って目頭が暑くなる限り、僕の人生の素晴らしさは約束されたものとなっている。そして夏バカまで成長して、あへらあへらと笑って過ごす日々だ。羨ましいだろ!
その経験者だから言える。どんな人にも気づけ無いだけで、バカの素は胸の中の何処かに隠れている。それがなんだっていい。恥ずかしがることなんて無い。笑われたっていい。人に笑われている限り、その主人公は自分だ、胸を張れ!人生楽しんだ者が勝ちとは言わない。勝ち負けなんていう物差しなんてとっくになくした。それがずいぶん重いものだったようで、なくしてからは身軽でしかたないわ!
ああ、文章書きたくて今日はこんなに書いてしまった。ここまで読んでくれた方貴重な時間を使ってくれてありがとう。あー楽しかった。
ではまた!
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