季語の殺し方「蟬」 ~類想からの脱却術
近年すこしづつ減つてゐる気もするが、夏を代表する虫といへば蟬だらう。虫だけではなく夏といへば蟬といふほどに生活に溶け込んでゐる存在だ。そんな蝉はもちろん俳句にも読まれやすい。油蟬、ミンミン蟬、熊蟬、チッチ蟬、松蟬など種類も多く、蟬時雨なんて素敵な言葉もある。ミンミン蟬は油蟬と同じくらゐメジャーな蟬なのに、例句をほとんど見かけないのは六音の座りの悪さからだらうか。一発逆転を狙ふならどんどんチャレンジしていきたい言葉である。蟬時雨は、一斉に鳴く蟬の声を時雨に見立てた言葉だ。すでに情感過剰なので、蟬時雨を使ふときは平凡なつまらない景をつけるべきだらう。風光明媚なところにつけたのでは、チャーハンをおかずに御飯を食べるやうなものである。
大丸とホテルを繋ぐ蟬時雨 山田弘子
これぐらゐのあつさりした風景がいいねえ。木とか森とか山は詠み尽くされてゐて妙味はまつたくないと言つてよい。ただし僕の好みで言へば、ほどんどが蝉の声でいいと思ふ。鳴き声は蟬の特徴として大いに注目すべきだが、時雨なんて洒落た表現は不要だ。
さうさう、空蟬なんて言葉もあつたな。蟬の抜け柄だ。もう一つ蟬を詠むときの注意は「儚さ」の味付けをしないことだ。蟬は何年も土中で過ごして、地上に出て一週間で死んでしまふ。ああ可哀さう、つて馬鹿か。なんで土中より地上がいいと勝手に決めてんだよ。蟬にとつては土中の方が快適かも知れないぢやん。だいたいこんな地上に何かいいことあるか。僕が蟬だつたら、一日で絶望して羽根を畳むよ。空蝉を拾つたり、手の上に乗せてみるのも最悪だ。もちろん壊したり、中身がすかすかのことを指摘しても誰も驚かない。また夏の連想で、戦争とつけるのも悪くはないが、儚さが前面に出てしまふと説教臭い句になつてしまふ。
空蟬に静かな水位ありにけり あざ蓉子
水位が上手だなあ。儚さに逃げず命の手触りがある。
有名な蟬の句といへば
しづけさや岩に染みゐる蟬の声 芭蕉
があるな。教科書にも載つてたりするけど、これは覚醒剤の句だと思ふ。「しづけさや」を意訳すると「ああキマッてきたなあ」となる。芭蕉は蟬の声を聴覚ではなく、視覚と触覚で感じてゐるのだ。すべてのものが岩に吸ひ込まれてゆく澄み切つた心境。夏なのに岩は限りなく冷えてゐる。つて蟬の話とだいぶ脱線してしまつた。ただ一つ言へることは体験を重視することの重要性だ。とくに蟬などの、共通のイメージを多く持つものは、イメージにもたれかかると途端に陳腐になることを覚えておけばよい。