季語の殺し方5「運動会」  ~類想からの脱却術

 気候の変動の煽りを一番受けてゐるのは秋である。十月になつても夏日が続き、我が家でもまだ扇風機が活躍をしてゐる。スポーツの秋といふぐらゐだから、運動会も涼しくなつて動きやすい秋に開催されるのが定例であつたが、現在はほとんどが春に移行されてゐる。十月では暑すぎて、子どもがバタバタと倒れてしまふのである。まあクーラーなんぞに頼つてゐる軟弱な生活様式がいけないのであるが、本筋とは離れるのでこの話はやめておかう。とにかく運動会はいま最も立場が危うい季語なのであるのは間違ひない。そもそも体育の日を変更したのが愚策であつた。十月十日は東京五輪の開幕の日といふこともあるが、それ以上に晴れの特異日であるといふ気候的な背景があつた。晴れた日に体を動かさうといふのが体育の日の本位だ。

  運動会今金色の刻に入る  堀内薫

 金色はまさしく秋の色だ。春の運動会ではこんな句はできなかつたはずだ。もちろん金色はただのクライマックスシーンと読んでもよい。

  精神科運動会天あけひろげ 平畑静塔

 精神科の運動会だつてやつぱり秋だ。どんな競技をしてゐたかは気になる。身体障碍者のオリンピックはあるけど、精神障碍者のオリンピックはないからなあ。つーかその前に参加したい精神病者つてゐるのかしら。

  振れば鳴る紙の旗かな運動会 野村喜舟
  運動会静かな廊下歩きをり 岡田由季
  運動会授乳の母をはづかしがる 草間時彦

 旗は運動会の定番。これも国民の行事を意識してゐてのことだらうか。自然に囲まれた旗や、漁村の大漁旗に混じつた旗などもよく詠まれるので注意。掲句は、紙のばたばたといふ音が聞こえてくる様で運動会の盛り上がりが伝はる。廊下に注目したのが二句目。同じ学校内でありながら視線が集まる校庭と誰も居ない静かな廊下の対比が面白い。廊下を歩く子は、ケガをしただけでなく、気持ち的に運動会の盛り上がりについていけないのだらう。僕もそのタイプだつたのでよくわかる。体育で張り切る奴は馬鹿だと思うてゐた。三句目はさらに一ひねりして客席を読んでゐる。子どもの頃は、みんなに親を見られるのがなんとなく恥づかしかつた。それが授乳をしてゐるとすればその恥づかしさは想像に難くない。句が完全に俗に走らないのは運動会の健全なイメージのおかげだらう。
 いづれの句からも言へることは、運動会そのものを詠むのは難しいといふことである。運動会で六文字を使つて競技名を入れたら文字数がほとんど残らないといふこともあるかも知れない。徒競走、借り物競走、棒倒し、大玉転がし、組体操ぐらゐは運動会の傍題にしても良ささうなのに。そのためにはまづは体育の日を十月十日に戻して欲しい。オトナプリキュアでも温暖化は人間の身勝手だと警鐘してゐたよ。ちなみに僕は三橋敏雄の「鈴に入る玉こそよけれ春の暮」をなぜか玉入れの句だと思ひ込んでゐた。授乳を見られるぐらゐ恥づかしい。

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