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老人と若人に申し上げたい、二つの世代が協力すれば凄い可能性があるよ その1

広い画像だけど、素敵な関係✨


若い人も年老いた人も、みんな等しく何かをやり遂げたいって思っているんじゃないかな。

ただ、何かを理由にして「できない」って言うけれど、突き詰めていくと本当は、できないんじゃなくて、実はやりたくないんだ、って事だったりする人も多くて、でも、それはそれでいいんです。


ただ私は、「実はやりたくない」人たちの相談に乗せられている、「本当にやる気ある」人たちの「時間を奪う」行為にだけは、もやもや考えてしまいます。いつまでも生産性のないLINEを送り続けたり(ブロガーになりなよ)、過去の威光にすがって昔話を繰り返したり(琵琶法師になりなよ)、何かと相談で仲間を呼び出したり(人集め上手じゃん)。

人間に与えられた最大の価値は「若さ」であり、人生の限られた時間をただの愚痴に付き合わせている愚痴多い人のなんて罪深いことか。胸の内がざわつきます。
自分の人生は自分で積み重ねるものですから、やりたくない事は別にやらなくていいですし、本当にそれを悪い事だと思っていないのです。強いて言えば、同調圧力で自分も何かをやらなければいけないのかも、で右にならえになっている自分の軸を持っていない事、それは人を惑わすことになるので、最低限自分の事は知っておこうよ、とは思いますが。


算命学や四柱推命で、その人の持つエネルギーの大小を知ることができます。
メジャーな傾向としては、大きいエネルギーを持つ人は社会に対して成し遂げる意気込みで挑戦してみればいいし、小さなエネルギーを持つ人は生活を維持しつつ暮らしや家庭を工夫する豊かさを味わえばいいって聞いた事があります。

コンビニに置かれているような一人乗りの配送車と、建設現場で廃材を運ぶダンプカーが違うように、子供と大人の暮らしが違うように、どちらも役割が違うだけで、自分の肉体を最大限に活かしてあげればいいのです。

ただ一方で、大きなエネルギーを持つのに、いつまでもできない理由に引きずられている人たちもいます。

若い人は「お金と社会的権威」、老いた人は「体力と時間」に。
どちらもただの無い物ねだり。最初から全てが揃った冒険がないように、いつだって船出には不安や足りない状態が付き物。こんな理論は歴史に使い古された当たり前な言葉だけど、腹の底から納得している人って実はかなり少ないんですよね。
その不安や足りないものがあるから、それを満たしてあげる事にワクワク楽しいエキサイティングを感じられ、その感じられる心、さらに言うと、心が感じる波のようなアップダウンに趣があります。

満ち足りてしまっている冒険に何の意味があり、何が楽しいんでしょうか。今の自分ができる事を超えて新しい事に挑戦する、その進化と成長の過程が楽しいんだから、今できない事を受け入れることこそ、それが幸せなんだと思います。その点、貧乏を楽しむ事も幸せだと思っているけれど、これは強がりかな(笑)


ただ、私にも不安に飲み込まれる事が多々あります。
今現段階(2021年11月)で預金180万円、職なし、社会の歪な仕組みを知りすぎてしまってお金を稼ぐ気にもなれないニート。まったくの余談ですが、銀行5行を分けて使っているせいで、引き出しできませんでしたって督促がよく来ますし、年末に100万円を返済しないといけなくて、、、。

こんな境遇だからこそわかる事もあります。

ここから先は、いわゆる老人ってジャンルになって、やる気をなくしている人たちに伝えたい言葉。

つづく↓


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