見出し画像

三題ばなし 「あなたもいつかこうなるわ」

人生が安定してくると、どうでもいいものを見たくなる。

仕事が安定している。
結婚もした。
貯金もある。

これから先の人生、色んなことが起きて、たまに悲しくなったり苛立つこともあるだろうが、もう自分の人生は、大抵のことでは崩れない。

安月給で使われて、明日の昼飯のことばかり気にかけていたあの頃、僕はこの生活を夢見ていた。

それなのに、今はもう飽き飽きしている。
僕は昨日、妻にせがまれて「来年の秋まで予約が埋まっているというレストラン」の予約を取ろうとしていた。
「明日の昼飯」から、随分と出世したものである。

今日は子どもを連れて、「ママ友」とどこかに出かけている。
一人で家にいても仕方ない。かと言って車を走らせてどこかに向かうのも面倒だったから、まるであの頃の休日みたいに、スウェットにクロックスで外に出た。
普段なら、リビングを出るところで妻に止められる服装である。

やたらと気分が良いので、スマートフォンさえ置いてきた。もはや、一文なしも同然である。

いつもは車でしか通らない住宅街を歩いてみると、全く知らない場所のように感じる。
こんなところに新しい家が建ったんだなぁとか、この区画だけ、やたらと木が生えているんだなぁとか、大変どうでもいいことである。

そんな調子でぼやぼや歩いていると、ある家の前に立て看板がしてあることに気づいた。
膝下までも及ばないような小さな木の立て看板である。

「あなたもいつかこうなるわ」

乱雑に貼り付けられた白い紙に、ただ一言そう書かれている。

なるほど、素晴らしいポップだなと思った。
アトリエか何かだろうか。
とはいえ、辺りは住宅が整然と並んでいるだけで、ひとつも歓迎される様子はない。

完全予約制のバーやレストランで、こういう風情のお店はある。
こんな看板を立てるような人は恐らく芸術家気質だろうし、明らかに説明の足りない展覧会を開いていても不思議ではない。

人生が安定すると、どうでもいいもの見たくなる。
意味のあるものは意図のあるもので、常に僕に何かを求めてくる。

その点、どうでもいいものは何も欲さない。僕がそれに何も求めていないからだ。

僕はなんとなく、その家の玄関の前に立った。
やはり、「入口」や「Welcome」の一言はない。
何かひとつでも、歓迎する文言があれば入ってみるのだが。

僕は自然と玄関の取手に手をかけていた。
ステンレス製の細長い取手が、手に冷たく吸い付いた。

開くだろうな、と予測していた。
まだここがただの家であるという推測から外れたわけではないのに、僕はこのドアが当然開くものだと勝手に思っていた。思い込んでいた。

驚くほど軽率に、ドアは開いた。
漏れ出した空気から居心地の悪い、人の家の香りがする。

明かりさえついていない玄関口の床に置かれた白い紙に、看板と同じような書体で「そのままお上がりください」と書かれている。
ここに来て初めて向けられた歓迎の言葉に、僕は少し安堵した。
そのまま、というのは土足のまま上がれということだろうか。

僕はドアを後ろ手に閉めて、辺りを見回した。下駄箱の上に赤べこがひとつ置かれている。
奥にはビーズの暖簾がかかった部屋の入口があって、框の奥にシックな赤色の絨毯が敷かれている。
親戚の家みたいだな、と思った。

僕は床に置かれた白い紙を乗り越えて、土足のまま家に踏み込んでいく。
普通の家の、普通の部屋。ビーズの暖簾をくぐるとキッチンがあった。
ダイニングテーブルには食材まで置かれているし、冷蔵庫には「格安!水道修理お任せください!」というマグネットが貼られている。ただの家だ。
他人の家。

「無理からぬことだわな」

突然、自分の左側からしゃがれた声がした。
語気はさほど強くなかったが、僕の精神は思ったよりも緊張していたようで、突然の音に酷く面食らって声を上げてしまった。

見ると、キッチンに繋がった和室のこたつに一人の老人が座っている。
老人が男か女かは、いまいち判断がつかない。
いや、その前に、何故僕は今この人を老人と表現したのだろう。
実際のところ、年齢は分からない。
声はしゃがれている。髪の毛も白い。
細くて小さい。喉元はやせ細ってゴツゴツしている。
ただ、その顔には皺がない。
強く、深い色の瞳がただ僕を映している。

「すみません、勝手に入ってしまって」
僕の言葉に“なにか”がにやりと笑う。黄色くなった不揃いの歯が覗く。

「見せたいものがあって、開いたんだよ」
“なにか”はそう言った。
背中に冷たい汗が流れるのを感じる。

「見せたい、もの」
僕が精一杯そう返すと、“なにか”はゆっくりと立ち上がって、黒電話の置かれた小さな棚の引き出しから一枚の絵を取り出す。
“なにか”はゆったりとした足取りで、こちらに近づく。
直感的に逃げるなら今だと思った。ただ、存外に足は動かない。
自分の脳のどこかは恐怖を感じていて、どこかは逃げないといけないと思っている。
ただ、他のどこかはこの状況に激しく興奮しているのだ。
豊かで安全で平穏な生活ですっかり眠っていた脳の一部分が僕をただここに留まらせる。

しわくちゃの手が、僕にその絵を握らせる。
冷たい老人の手だった。
絵には犬が描かれている。
シワのある、不細工な犬。ブルドッグだ。

「なにを欲しいと思って生きるかね」

近くで“なにか”の顔を見ると、なんてことのない老婆である。若造りをするでもない、ただ歳を重ねて、いつからかここにいて、そしていつまでもそこにいる、ただの老婆だ。

「なんだったか、いつからか分からなくなりました」
何かを考えたつもりもなく、老婆の言葉を咀嚼したでもなく、僕はそんなことを口走っていた。まるで、誰かに覚えさせられたセリフを喋るように。

その言葉を聞いた老婆は、また黄色い歯を剥き出しにして笑った。古い箪笥を開けたときのような古臭い香りがする。

「いや、そうだ。ここに来るつもりなんてまるで無かったのに、僕はどうしてここにいるんでしょう」
なんでこんなことをしているんだろう。明日の昼飯を考えていたあの時が幸せだったんだ。来年の秋まで待って何かを食べるなんて、そんなくだらないことがあるだろうか。
今自分の食べたいものを決めるのが一番幸せなんじゃないのか。

「あなたもいつか、こうなるわ」
老婆はそう言って後ろを向くと、ゆっくりこたつに座った。
そしてまた真っ直ぐに前を見つめている。老婆の黒目はほとんど何も写していない。

「この絵はあなたが描いたんですか」

老婆はうなづきもしない。

「いただいていいんですか?」

ブルドッグは黒で、目の周りだけが白い。刻まれた深い皺がその肌よりも黒く描かれている。老婆はぴくりとも動かなくなった。
僕は一銭も持っていなかった。

「お金もってなくて、だから、またここにきますから」

僕はそう言って歩き出した。
棚に置かれた赤べこが僕が歩いた振動で首をゆらしている。

外に出て、僕はすぐに家に戻った。
なんてことはない。当てもなく歩いてもせいぜい15分くらいのところであった。

財布を持ち出して元の道へ戻る。
ひょっとして、あの家はもうないんじゃないかという気がした。
あの時の僕にしか見つからない不思議な展覧会だったのではないかと。

しかし、そんな淡いSF願望は見事に打ち砕かれた。なんとも容易にあの看板の家を見つけた。

白い紙にかかれた「あなたもいつか、こうなるわ」。
ブルドッグの絵を渡しながら、老婆は改めて僕にそう言った。

こういうものにお金を払うのは当然だと思う。ただ、老婆は僕にお金もせびらなかったし、ただ見せたいものがあるとだけ言った。

いったいいくら払えばいいかわからない。
僕は財布を開く。
何枚かの一万円札。

さすがに一万円は惜しい気がした。
財布をのぞいていると、緑色をした紙幣を一枚見つけた。

いつかインドに行った時に記念で取っておいた50ルピー札である。
日本円にして100円程度だろうか。
札の面で歯を剥き出しにして屈託なく笑うマハトマ・ガンジーの顔が、どことなく老婆の顔に似ている気がした。

僕はなんとなく、50ルピー札を立て札に挟んで、そのまま歩き出した。
吹き抜ける風が、首筋に当たると汗が冷えて寒さを感じた。

ブルドッグの絵をもう一度見る。
不遜な犬の顔が不機嫌そうにこちらを見ている。

僕は「こうなる」。
入ってお礼のひとつでも言えばいいのにそうしなかったのは、彼女の励ましにお金を払おうなんて野暮が、芸術家に失礼なのではないかと思ったからだ。

いいなと思ったら応援しよう!