親となった今、こじれず程よく長生きすることを戒めとす。
note37日目。
スマホの文字打つ部分が記号とかアルファベットのままなのに
日本語フリック入力をしてしまうことありませんか…
note散歩をしていたら「痛いとこ突く」作品があります。
痛いとこ突かれるとイタイので、作品の善し悪し関係なく、あまり読み込むことはないのですが、たまに読んでしまいます。
やはり痛いとこは自分の痼りなんです。
今日読んだ作品は親のことでした。
親子関係って複雑だなと感じます。
私も「あなたのため」と言われてきたし「三つ子の魂」「大切にしてきた」と言われてきました。
けれどそれらは、私には話されない言い訳のためにあったんだ、と最近気づきました。
だってそんなこと、耳にタコできるほど言って聞かせなくてもその時がくれば自然と分かることなんです。
それを大声で言わなければならない、言わずにはいられない、そういう状況だったということです。
そのうち母は「あなたのため」から「私のため」と発言するようになりました。
私のために〇〇してくれてもいいじゃないか。
あんなに愛情を注いだのだから。
あなたが△△だから、私はこうなんだ。
だからあなたは○○するのが当たり前だ。
これはうちには普通の会話でした。
最初から最後まで、うちには当たり前のくだりでした。
「ご飯を食べる時はいただきますを言おうね」
と同じです。
私をとりまく、うち独自のステレオタイプに疑問を感じることなどありませんでした。
ちょっと尖った意見を持つ母が「私の母」だからです。
それと「良い子であれ」「親を大切にすべし」こういう世間一般の道徳的な当たり前が、私の行動をやんわりと形造っていたと思います。
その時その時に自分の置かれている状況や思想に疑問を持って何かしら行動をとることは、生命に危機が及ばない限りとても難しいと思います。
もしかすると私がもっと活発で聡明な性格だったり、明確な夢があったりしたら違ったかもしれません。
本当の意味で「ちょっと違うような気がする」と感じ始めたのは、社会人になってもう一度母と一緒に住み始めた頃からでした。
休日は朝から夕方までずっと話を聞きます。
普通の話と思ってした些細な内容から、母自身がどんな風に生きてきたか、私が駄目なところを罵詈雑言ありきで数時間です。
日曜のワイドショーの若いカップルが観光地でインタビューを受けている、そんな微笑ましいシーンが私に対する罵詈雑言に発展します。
仕事から帰ってくると「良い物件があった」と内覧に行くことになります。よくよく聞いていると手付け金の話をしています。
家がないと地域から認めてもらえないから、日中家にいる母のために必要な、私が買う物件です。
あれこれなだめ、すかし何とかやっていました。
もちろん悪いことばかりではないです。
2人でテレビの歌謡番組で一緒に歌ったり、調子の良い時には買い物に出かけたり、母の元気な姿を見られるのはやっぱり嬉しい気持ちでした。
家も買い、母と2人暮らし。
今度は私に結婚しろと言い始めます。
それ程結婚願望が強かったわけでもないので、良い人がいれば、それくらいで考えていました。
いつもの強制介入やら何やかんやあった末、私が初めて結婚したいかもと思う方に出逢います。
その方も、母と一緒に住んでも良いという寛大な方でしたので、本当に今まで待ってて良かったと感謝した覚えがあります。
とはいってもこれも一筋縄ではいきません。
結局、母は棲家の床にケチャップとマヨネーズを撒き散らし、ゴミを撒き、壁中に油性マジックで恨言を書き連ね、鍵を川に投げ捨て自分の家に帰って行きました。
怒りなんてありません。
どちらかといえば悲しさと尊敬の気持ちです。
今、これまで持っていた自分の色々なものよりも、新しい家族やそこから広がる世界はきっとこれまで今までより何倍も素敵なはず、という私の声が届かなかったことは、自分の力不足も含め悔しく悲しく惜しい気持ちでいっぱいでした。
あとは、母自身も死なず、私を殺さず済む解決策はこれしかなくて、これを実行した母の決意に尊いものを感じていました。
その後も何度か関わりがありました。
きまって裁判所か、警察からです。
私の心も耐久力もだんだん弱くもなります。
仕方ないな。
こう思うしかないし、これでよいと思うのです。
新しい命たちは良いも悪いも前だけを向いて前進していくものです。
自分の子供もそう見えるし、自分の子供の頃もそうでした。
親の、たとえば「あの時この子にこうしてあげられなかった、でもそれは~~だったから、だから私を責めないで」みたいな考えは無用だと思うのです。
恥はかき捨て、世は情けです。
だいたいの恥なんて普遍的なものではないし、
世の中できない事だらけです。それに子供は親ほど望んでいないような気がします。そんなことより子供はただ単純に親が大好きです。
たとえその時いがみあったとしても、世間に出て情けを知れば自ずと分かることもあります。
だから、親は決してこじれないこと。元気で程よく長生きすること。
子はいつまでも親のせいなんて甘えとくな。
甘えられる場があることをラッキーと思って、親を肥やしにして自ら成長すること。
母をみて、父をみて、自分をみて、子供をみて私がいま思う教訓です。
親子って複雑だけど、もともとは単純です。
親は土、子供は芽。