東京のバスガール

 19で結婚した母は二十歳で兄を産んだ。そして翌年にはその幼い子を連れて婚家を飛び出した。姑や小姑との関係が芳しくなかったからだ。その母を追うように父も実家を出た。実家は乾物屋を営んでいたが、父は勘当され職を失い、小さな町工場に勤めた。
 やがて私が生まれたのが2年後の昭和31年のことであった。両家の親戚中の怒りを買っての分家であり、着の身着のままで家を出たため、何もない生活の始まりであった。私が4歳の時に両親は家を持つのだが、それまでは私が生まれた二軒長屋の二間での生活であった。
 丸い卓袱台と和箪笥一棹、それに父が天上の梁から吊るしたブランコがあるだけだった。高度経済成長の直前で、庶民の生活は総じて貧しかったが、私たち一家はとりわけ質素だった。電化製品もろくになかった。あったのは照明とラジオとアイロンの3つだ。テレビは近所の裕福な家にあり、何かあるとその家に人々が集まり観賞した。隣近所でお惣菜を分け合ったり、留守番や子守を頼んだり、思えばのんびりとした時代でもあった。
 戦後は終わったと人々は言い、時代の空気は明るかったし、それなりに幸せな生活が始まると母は思っていた。が、そうはいかなかった。父のその当時の心境を今や知る由もないが、父が荒れるようになったのだ。父からすれば、実家か妻子かと選択を迫られ妻子を選びはしたものの、面白くない気持ちを抱えていたのであろうか、深酒をして、時に大声で騒いだり暴れたりするようになった。
 その頃の父の姿を私はほとんど覚えていないのだが、ただ一つ鮮烈な記憶がある。ある時、父が酔ってアイロンを庭に投げつけたのだ。夜の庭に投げ捨てられたアイロンは、母の涙といっしょに今も私の心の底で冷たく光っている。
 酒に溺れる夫、わんぱく盛りの息子、そしてまだ赤子の娘。冷蔵庫も洗濯機もない生活。家事と育児で泣く余裕さえない日々。愚痴をこぼす親戚もない。そんな母の唯一の楽しみはラジオだった。
 その日も母は私を背に負い、ラジオを聴きながら、はたきをかけていた。ラジオからは「東京のバスガール」が流れていた。すると突然、背中の私が
「私は東京の」に続く「バスガール」の一節だけをはっきり歌ったと言う。
私自身は全く覚えていないが、母は笑いながら何度もその思い出を私に聞かせてくれた。まだ片言しか話せなかった2歳の私が、生まれて初めて歌ったというその歌が、母に笑顔をもたらしたと思うと、その歌は私にとってもかけがえのない一曲となっている。

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