節ちゃんのこと

 「姉が貞子で私が節子だって、何それ。」と言って、節ちゃんは唇の端をちょっと歪めて笑った。愁いを含んだくっきりした二重瞼で、わずかにあがった頬骨の下がすっきり削れている節ちゃんは、そんな笑い方も美しかった。大学2年の夏休み、8月も末のことだった。同じ国文学専攻で共通の授業が多く、自然と仲良くなった6人グループのうちのひとりが節ちゃんだった。地方出身で一人暮らしの私に、節ちゃんは時々お弁当を作ってくれたりもした。
 「父親がつけた名前。」と節ちゃんは付け加えた。お父さんは大学でフランス文学を教えているということで、平凡なサラリーマンの娘である私からすると、とても眩しかったのだが、節ちゃんはお父さんのことがあまり好きではないのだった。教育パパで、小中学校は大学まである付属のお嬢様学校に姉妹を通わせた。勉強がよくできた節ちゃん姉妹は、父親の指示により、当時神奈川県でトップ校であった湘南高校に進学した。そしてお姉さんの貞子さんは無事東大に進み、節ちゃんは国立一期校受験に失敗し、横浜にある二期校に進学したのだ。お姉さんの方が何でもよくできて、節ちゃんも美人なのだが、お姉さんはその上をいく美貌だそうで、節ちゃんは幼いころから屈折した思いを抱えて生きてきたのだと話した。
 「それになんと、母の名前は淑子なんだから。笑えるでしょ。」と節ちゃんの話は続いた。
「母の名前は父が付けたわけじゃないから、関係ないけど。貞子に節子はアナクロニズムもいいところよね。気持ち悪い。」と吐き捨てるように言った。

 私たちは鎌倉駅からバスに乗って霊園に向かっている最中だった。お盆の時期にゼミ合宿がありお墓参りができなかった節ちゃんのために、6人で節ちゃんのお母さんのお墓参りに行くことにしたのだ。節ちゃんのお母さんは3年前、節ちゃんが高校2年の夏に癌で亡くなっていた。40歳の若さだった。大学1年の頃にその話を初めて聞いたときは、誰も何も言えなかった。今なら「大変だったね。」くらいの言葉を発することができるが、私たちは子どもだったのだ。みな、その話を聞いて淡々とその事実を受け入れた。節ちゃんも軽い世間話のノリで話したし、べたな同情はかえって失礼な気がしたのだ。
 乗車してから20分ほどでバスは鎌倉霊園に到着した。霊園に着くと、さすがに私たちはみな厳粛な面持ちになった。節ちゃんも表情が硬くなった。私たちは黙って節ちゃんの後に続いた。管理事務所の脇に手桶や柄杓があり、それらを借りて水を汲み、しばらく歩くと節ちゃんが突然足を止めた。
「どうしたの?」と、私が聞くと節ちゃんは黙って一つの墓石を指さした。その墓石の前に小さな鉢植えが置かれ、可憐な白い花が風に揺れていた。
「あっ、鷺草だね。」と草花に詳しい百合子が言った。私には初めて見る花だった。本当に鷺が舞っているようで、その白の清らかさに心が洗われるようだった。
「誰が置いたのかな?」と節ちゃんは言った。
「もしかして、お母さんの好きだった花とかいうことはないの?」と百合子が聞き、さらに続けた。
「鷺草の花言葉って知ってる? いくつかあるけど、『夢でもあなたを思う』という花言葉があるのよ。素敵でしょ。」と教えてくれた。すると節ちゃんはとてもびっくりした顔で百合子を見つめた。そのただならぬ様子にみなが緊張した。
「節ちゃん、どうしたの? 大丈夫?」と、みなが口々に言うと、節ちゃんは我に返り、「ううん、なんでもない。」と答えた。その後、みなで墓石とその周囲を清め、花を取り換え、鉢植えにも水をやった。そしてお線香をあげて、蜩の声に包まれながら合掌した。
 帰り道は、またたわいないお喋りをしながら帰った。みなで小町通りでお茶でも飲むのかとも思ったが、誰もそう言い出すことはなく、新学期に大学で会おうと言って別れることになった。

 すぐに9月になり大学が始まった。授業もぎっしり詰まっていたし、家庭教師のアルバイトやらサークル活動やらで6人とも忙しく、全員でゆっくり会う機会がなかなか訪れなかったが、そんなある日、節ちゃんが、ケーキを作ってきたから、集まれる人はサークル棟の節ちゃんが所属する新聞界の部屋に来て、と声をかけた。久しぶりで嬉しかったので、私も家庭教師のアルバイトをキャンセルして行くことにした。サークル棟にはちゃんとしたサークルももちろんあるのだが、それ以上に、とある宗教、または政治団体の大学での出先機関だとか、学生運動の〇〇派の拠点だとか、そういうのが幅を利かせていた。朝は大学の通用門の手前2,30メートルのあたりから機動隊がずらっと並んでいることも珍しくなかった。1970年代も半ばを過ぎて、学生運動も随分下火になっていたが、私たちの大学はどこまでも泥臭く、いつまでも拘りが残っているようだった。しかし、そんな大学が私はきらいではなかった。
 その日は新聞界のメンバーは他大学の学園祭に取材に行っているとかで、節ちゃんだけが残っていたのだ。節ちゃんはスポンジも自分で焼いたというケーキを切ってみなに配ると、電気ポットでお湯を沸かし紅茶も淹れてくれた。
彼氏の話、アルバイトの愚痴、課されたレポートの話や運転免許を取る話など、話題に事欠かずにぎやかに時は過ぎていたが、そのうちにふと節ちゃんが言った言葉で6人はしんとなった。
「あのね、鷺草なんだけどね、母のお墓に鷺草を置いていった人のことなんだけど。」と言って、節ちゃんはこんな話を聞かせてくれた。

―― 母が亡くなった時に叔母たちに形見分けをしてと言われて、母の指輪やネックレス、着物、バッグと整理したのよ。まず私たち姉妹が欲しいものをとって、残った中から叔母たちが思い出になるものをもらいたいということで。四十九日の法要が終わって片付けを始めたんだけど、姉と二人で泣きながらひとつずつ見ていったの。アクセサリーはわずかだったけど、母は着物が好きで、お正月や私たちの入学式、卒業式はもちろん、ちょっとしたお出かけにも着物を着る人で、ずいぶんたくさん着物があったわ。私も姉も着物のことなんかわからないし、あれこれと広げて、いつの間にか泣くのを忘れて、ただその美しさに見惚れていた。姉と二人どれくらいぼうっとしていたのかな。お昼過ぎに始めたのに、ふと気づくともう夕日が納戸に差し込んで、そのたくさんの絹を照らし出していた。着物はもういいから、叔母たちの好きにしてもらおうと決めて、また和箪笥に1枚ずつしまっていったんだけど、母の特にお気に入りだった1枚の紬を手に取った時、襟の中に何か微かに硬いものがあることに気付いたの。姉に知らせ、二人で襟の部分をほどいてみたの。そうしたらそこに1枚の男性の写真と、名前と住所を書いたメモがあった。その写真の裏には『夢でもあなたを思う』と書いてあった。母の字ではなかったから、多分その男性がそう書いて、母に渡したんだと思う。メモ書きの名前と住所は母の字だった。二人の間にどんなドラマがあったのかはわからないけれど。父には言わなかったわ。姉と私の秘密。あの写真の人がまだ母を想っているのなら、会ってみたいと思うのよ。貞節の娘の母で、貞淑な女だと誰もが信じていた人の、真実の姿を知りたい。――

 私たちはみな興奮した。節ちゃんのお母さんのこともお父さんのことも何も知らないけれど、何かとても悲しくてロマンチックな話だと、胸がいっぱいになった。住所を頼りにみなで探そうという話にまでなった。しかしそれは実現しなかったし、その後節ちゃんがその人を探したのかどうかも知らない。ただそれから1年後に節ちゃんのお父さんは再婚した。節ちゃんは、料理の下手な人だとかなんとか、時々悪口を言っていた。私たちは笑ってそれを聞いていた。
「もう50に手が届こうという人たちが未だに男と女なのかと思うとぞっとする。」と突然発言して、私たちを絶句させたこともあった。

 還暦を過ぎた今頃になって、ああ、節ちゃんは大変だったのだとわかる。もちろん両親のどちらかが早く亡くなるというのは、世間にはそれなりにあり得る話だし、新しいお母さんと生活することもあり得ることだろう。戦争で我が子を失うとか、震災で家族を失うとかいうこともあるから、不幸の重さを比べるのはいけないことかもしれないが、そういう不幸と比べたら、ましだったのかもしれない。でも、こうして書いてきて、私がしみじみ思うことは、あの当時の、家族の話をする時は妙に冷静でシニカルだった節ちゃんを抱きしめてあげたいということだ。何十年も経った今頃になって、節ちゃんの孤独や不安がやっとわかったような気がする。節ちゃんの心を慮ることができなかった自分自身の不甲斐なさを叱りながら、もしもあの頃に帰れるのなら、私はただ黙って節ちゃんを抱きしめたいと、叶わぬ夢を見るのだ。
 



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