自分史的なクリッピング史料

世知辛い世の中だ。保育士が園児に暴行を加えるなど論外な事件があった。
加害者は未だ若い。動機は「イラついていたから」等と供述しているというけど、結局、何か焦燥感でも普段から抱いていたのではないか?と思ったりもする。他にも元検事正が逮捕されたりと・・・何だか本来ルールを率先して守っていくような人たちが、ルール破りをするという最近の事情ではあるあるなのだろうか。

2024年6月26日 朝日 こころのはなし
まじめに働いているけれど、サボりたくなったら

このインタビュー記事は、政治学者で作家の栗原康さんへのもの。栗原さんの著書『さぼる哲学』は以前に読んだ。ちょっと話題にもなっていたので。

インタビュー形式で順を追ってみると・・・
ー 日々やらなければいけないことが積み重なり息苦しく感じることがある。
それが本当に必要な仕事かどうか、サボれるならサボる、力を抜けるのなら力を抜けばいいと栗原さんは回答している。それは経営者の傲慢であると。労働者が進んでやりたくないことを引き受けてくれてるんだからと。

ー  サボらずまじめに働き、家族の生活を支える、そうありたいと思う。
それで快適に過ごせているのならいいんじゃないか。でも「まじめに働く」という倫理観を強制されていないかどうかは自覚的でありたいと。そもそも働かないと食いっぱぐれて死ぬという恐怖感の刷り込みがはなはだしいと。
栗原さん自身も食いっぱぐれているけど、何とかなっていると。37歳まで実家で親と暮らし、定職に就いたことはないんだと。確かにこういう人でも結果的に自立できるようになっていれば、所感としては実践しているわけで本人が言う分はいいけど・・・と思いながら。

ー  働くことへの疑問のきっかけは何か?
高校時代のある朝、満員電車の中で目の前にいた男性の靴に吐いてしまった際に、何度も男性からカバンで背中をたたかれ恐怖を感じたと。その際に駅で休んで周りの様子を見ていた時、自分が何かレールから外れている気がしたと同時に、満員電車に必死に耐えることがばからしくなった、そして遅刻したっていいじゃないかと。それ以来、疲れたら途中で電車を降り、駅や公園のベンチで本を読むようにした。その時に読んだ本が岩波文庫の『大杉栄評論集』だったと。自分も随分と長距離電車通勤をしていたけど、満員電車を避けたいがために、朝早くの電車に乗っていた。でもそう考える人は少なからずとも多くいて、朝早くの電車でも結構混んでいて辟易した。だから、馬鹿らしいと思うのは多くの人がそう思っているのに・・・というところだろうか。

ー  大杉栄は大正期の代表的なアナーキスト(無政府主義者)だけど・・・
その本を読んでいて、「百合の皮をむくと、むいてもむいても皮があって、ついに最後の皮をむくと百合そのものは何もなくなる」という文章に出会い、「我々も自我の皮を棄脱して行かなくてはならない」と説いていると。
兵隊のように強制された足並みで、皆と同じように進んでいくのは変だ。「こうあるべき」という皮を1枚ずつむき、ゼロになってはじめて「我々の自我は、皮でない実ばかりの本当の生長を遂げていく」と書いていると。そこで、自分もやりたいことしかやりたくないと思うようになったとコメントしている。まあ、慣習や常識と言われるものに流されることなく、一度立ち止まって自考するという態度があってもいいんじゃないか?ってことだろうか。

ー  栗原さんが研究するアナーキズムとはどういう思想なのか?
あらゆる支配はいらないという思想だと。労働者は会社から賃金をもらわなければ生きていけないと思わされ、資本家に従属し、奴隷化されているんだと。人は死の恐怖を突き付けられると、他人に奴隷のように従ってしまいがち。どんなに意に沿わないことでも命令に服従してしまう。そういう奴隷状態から脱していきたいということだと。」

ー  でも現実としては従属と言われようがまじめに働き、今の生活を守りたいと思うはずでは?
それで精神的にも肉体的にもなんの問題もないならいいんじゃないかと。総じて、そんな完璧な満足を持ち合わせている人はそう多くはないと思う。確かに「生きるためにこうするべきだ」という観念ばかりが先行すると息苦しくもなる。やりたくないことから、少しおりてみてもよいのでは?という所感についてはある意味共感はできる。必ずしも会社の正義が自分の正義と完全に重なり合うことはないし、高評価や出世を投げ出しても、時には必要な態度ではないかと思う。自分が何かに縛られていると自覚するだけでも違うんだと。自分を縛り付けている何かを振り払うことで、瞬間おりることを覚えておけばよいということだろう。今の生活を失う恐怖は消費に縛られているからだと。誰の目に見てもおいしそうなものを食べることなどをSNSで発信している様子を見ると、本来の「食べる」という行為から外れてしまい、皆がそう言っているからに変化してしまっていると。そのSNSの情報の中には企業が誘導したインフルエンサーの情報も多いだろう。「家族の生活を守る」ということは誰かに決められたものではなく、全ての支配を一度疑ってみることこそが大事だと。

ー  仕事には自分の成長を実感できる瞬間など楽しいと思える面もある。それは否定しないけど、安易に「自己実現」と結びつけるような発想が社会に広がっている。キャリアアップ、成長などの名目のもとに転職市場を煽り、就活の大学生には自己PRを論理的に求めて、企業との相性をフィットさせるべくその証明を求めるなどは、単に追い立てられていて、つらいだけなのではないかと締めくくられている。

何となくこのインタビューを読んでいると、本質的にはあくせくせず、余裕をもって物事に対峙する態度を、或いは寛容という態度を、そして決定権はあくまで自分にあることを自覚せよと説いているんだなぁと思う。総論賛成、でも現実はなぁ・・・と考えてしまうこと自体脱皮できていない証拠かもしれないと思いつつ・・・。

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