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自分史的なクリッピング史料(番外編)「父の闘病記」
前回は、父の遺品整理の中からの資料というか何というか、闘病記を読み返したことを綴った。今回はその続き。
1.” 鬼手仏心 " に想う、というタイトル。付番をしながら、毎日原稿を考えていたのだろうか。
「K大病院に入院して間もなくの頃、ナースセンタ(技術者なので、センターではない)受付近くでタレントのケント・デリカットが医師との話し中のなかで、通りすがりに耳にした言葉 " 鬼手仏心 " が思い出された。たしかこの病院に入院する前に、M外科病院の一階待合室にて壁に掲げられた額の中に " 鬼手仏心 " があったことを覚えている。M院長が中華民国に行かれたときにもこの文字を署にしたためている。本来の意味、及び出典は不明であるが私の勝手な感触では当大学外科医の根底にある基本姿勢ではなかろうかと解釈している。退院するまでには、御教授頂くつもりであるが、なかなかに含蓄のある言葉である。鬼手仏心、鬼面仏心、仏と鬼との組合せを心にくいまでに使いわけしているように思える。私もこれから利用させて頂くつもりである」
M院長のエピソードなどはどうやって知ったのだろうか?いずれにせよ、スマホでサクサク調べることはできない時代だったから、この四字熟語に興味を抱いたというのは、技術者らしい細やかな注意の賜物だろうか。実際にWebで調べてみると・・・
きしゅ‐ぶっしん【鬼手仏心】〘 名詞 〙 見た目には情け容赦がないようだが、実は相手のためを思う意向に発すること。 外科医の、身体を切り開く残酷な手術と、それによって患者を救おうとする心のことなどにいう。
とあるので、医学的には広く知られた言葉なのだろう。
一方、鬼面仏心については知っていたようだ(という書きっぷり)。
きめん-ぶっしん【鬼面仏心】〘 名詞 〙外見は怖そうだが、内面は仏のようなやさしい心のことを意味する四字熟語。
当時、辞書でも持ち込んでいたら、きっと必死になって調べていたことだろう。1度目の入院生活は手術を経て、容態が安定もしていったので、きっと心の余裕もあったのかもしれない。退院時には、父からみて一番末っ子の弟、叔父さんが一緒に医師の話を聞いてくれた。
何せこちらは社会人4年目、兄も社会人7年目で、まあ言うなれば立派な大人ではあるものの、心配してくれたのか同席してくれた。でもその時に「転移の跡が見られるので、再発が予見される」と告げられ、少しでも充実した生活を送って欲しい的なアドバイスをもらった記憶がある。切除した肺癌の様子も見せてくれた。これがガンです、と。
体の中ではごく一部の細胞なのかもしれないけど、それが死をもたらすということを何となく衝撃的に思ったこと、体は緻密なパーツで出来上がっていること等を心に浮かんだことを今でも鮮明な記憶がある。
母の術後は、こちらは学生でもあったし、父だけが医者に対峙した。確か手術の当日夜に、「多分助かることは難しい」と父から言われたことを覚えている。
その後、退院時までに ” 鬼手仏心 " についてクラリファイできたのだろうかと思いつつ、少なくとも疑問を残していくような性格ではなかったので、きっと問いかけをしたんだろうなぁと思う。でも、こうした記録を残してくれて、亡くなった父を思い出すきっかけにもなり、時折その生き様を想起できるようなチャンスに恵まれる。今では技術的な進歩から、手書きで記録を残すという習慣が廃れてきたようには感じるものの、人生の最後の方で自分が何を思っているのかを記すことって残された者にも生きる意味を考えなさいよとアドバイスをくれているような感じもする。勿論、記録だけではなく記憶も大事だし、自分はどうするんだろう?と俯瞰している。