自分史的なクリッピング史料
今朝も昨日に続きいよいよ殺人的な暑さをもよおしてきた。きっと今年も酷暑であることに間違いないと勝手に確信する次第。犬の散歩もかなりスタートを早めなければと思いながら汗ダクダクで昨日、今日と敢行した。そういえば昨日朝、都知事選の世間放送を偶然観た。N党の石丸氏のものだった。選挙戦略というのは、党によって或いは個人によって違いというか考え方はそれぞれだから、適法である限りは許されるということは理解しているものの、極めて普通の庶民的感覚で言えば少々違和感を持つことも多い。適法である限り、公共放送の電波を使って自己の主張・PRをしたっていいじゃないか?ということ何だろうけどそれでもなぁ?・・・と思う人も多いのではないだろうか。
2024年4月2日 朝日 メディア空間考 増えたSNS離脱
「思考の放棄」を危惧
これは朝日新聞の記者のコラム。冒頭で、「X(旧ツイッター)は鍵をかけて休眠」「アカウントを消した」というテキストで始まる。
確かにイーロン・マスク以来と言えば分かりやすいのだけれど、Xをめぐっては色々な問題が指摘されている。その代わりに、新興のスレッズやブルースカイにアカウントを設けても、意見をあまり書き込まなくなったという人も多いらしい。自分も興味本位でスレッズは始めているけど、本当にたわいもない日常に思うことで、絵(画像)などが不要な記述に基本徹している。短い文章で(なるべく)ふと思ったことを書くことと、インスタでは書かない内容などになるのかなぁ?と思いつつ(要は自分では使い分けているつもりではある)。
この記者は2012年から実名でXを活用し、読者とつながる場としてきたとコメントしている。だけど、今では記事やイベントの告知が中心で、交流(ソーシャル)メディアとしての利用はほぼやめたに等しいとしている。記者でさえそうなんだから、他の人たちもそういう傾向に陥っているのだろうか?
何だかフライヤー(チラシ)みたいになっちゃってる。
ネット上で他の人の意見を知るという目的では未だ有用だと思うけど、但し匿名での罵詈雑言の応酬は見ていられない気持ちになることが増えたと。そうなんだよなぁ、時折激しい意見のやり合いを見ることもあって、例えば明らかに事実誤認がある等の時の応酬は仕方のないことだと思うものの、確かに言葉を携えての悪言は読んでいて楽しいものではない。民事裁判で誹謗中傷への損害賠償がより認められているようになっても歯止めが効かないと記者は嘆いている。
女優の仲里依紗は、「拡散で注目されると『いいことをした』と楽しくなってしまうのでは?」とコメントしている。集団でのいじめは身体的なもにとどまらず、精神的なもので執拗に追い込むという輩が多いという事実も悲しいもの。離脱や自粛が増えたSNSは今後どうなるのか?
締めくくり近くのパラグラフで、ムスリムクリエーター(女性)の方のコメントが記されている。「イスラムへの偏ったイメージを払拭したい」と日本になじむヒジャブのファッションを自撮りして、SNSに積極的に投稿してきたけれどBGMのようにスルーされて心が折れたとコメントしている。そして「思考を放棄した社会の結果がこれなのか」とも彼女は言っている。
日本社会にはびこる無関心、意見をためらう空気、などが蔓延していけば、前むきな発言を孤立させて「思考の放棄」が加速するのではと記者は懸念している様子。一部の海外の国・地域ではSNSに対する規制も強く、自由度という意味では日本の比ではないはず。それぞれの固有の事情があるとは言え本来の自由で公平な運用が皆の共通の利益につながるという認識が必要なのではないのか?そうした姿勢を後押ししたいと(記者は)結んでいる。
でも、自分も利用していると言っても年代的な問題なのか、それでも新しもの好きとして新たな環境にタッチしていたいという見栄的な態度なのか、ついついSNSを何となく利用しているけど、しっかりと自分の目的や目標をもっていきたいと改めて自省する次第・・・。