自分史的なクリッピング史料
袴田さんの事件は漸く決着がついた。50年を超える戦いには頭が下がる思いだ。何でこんなに時間がかかるのだろうか。確かに冤罪ほど許しがたいものはない。一方で、慎重な判断というものも必要だから、自ずと相応の時間が掛かるというのも否定はしないけど、それでも人の一生は有限だ。そのほとんどを罪の有る無しに関わってきたことを思うと本当にやるせない。
一方で、ドラえもんの声優として長くに渡り活躍してきた大山のぶ代さんが亡くなった。子供たちの夢であり続けるために、ドラえもん以外の仕事は受けなかったとか。そうした矜持を持って仕事に臨んでいたんだという生き様は、少なくとも感心が寄せられる。夢を与える仕事っていいなぁと思う。
袴田さんの事件と大山のぶ代さんの話は全く別モノと言い切ってしまえばそれまでだけど、いずれにせよ、個々の人生の中で間違いなく時間を長きにわたって費消したことには違いなく、そうした信念やら態度というものにはひたすら敬意を表するしかないのかなぁと勝手に思う。
そうこうしている間にも、日常的に所謂終活が気になる。要は自身の最期ってというのが正直想像できないながらも、思い考えることは必須だと思っている。決して嫌悪する話題ではなく前向きに。当然、身体の自由は年齢と共に劣化していくし、健康寿命とはどんなイメージを自身に当てはめることができるのか?等々。
2023年1月28日 朝日 知っ得 なっ得 墓じまい3「永代供養」って何?
2023年2月4日 朝日 知っ得 なっ得 墓じまい4 散骨と樹木葬の違いは?
仏教には関心が強い方だけど、それは書籍などから得られる知識ベースを蓄えることに注意が及ぶというもの。般若心経のガイド・解説本を始め、道元の記した正法眼蔵等々、そして法華経のガイド、日蓮の生き様を記した本など読み漁っている。でも現実には、母方の墓を守り檀家にもなっているのでそちらは天台宗と、バリエーションには富んでいる。当然、最澄の教えなども本で読んではいる。だけど結局リアルな実情と言えば、一番頭を悩ませているのは実はこの墓守のことになる。
どうやらこの2つの記事を読むと、まずは永代供養するにはお寺の方針や、実際には悩ましい問題も多いと記されている。もちろんそのための費用の問題もある。そして自分はその墓に入るのか入らないのか等々も考えなくてはならない。自分の子供たちが墓守をするというイメージが湧かず、これまで墓参についてきたことはない。そもそも、どちらかと言えば慣習的なものであることは間違いないと思いつつ、墓の存在が後世にどのような位置付けになるのか?が自分でも分かっていないというのが正直なところ。これまで40年近く、父母が亡くなってから墓を守ってきてはいるものの、自分が当たり前のようにその墓に入ることというのを残された家族はイメージしているのだろうか?という疑問が残ってしまう。ただし、基本的には後世の負担が軽減されるという事実も見逃せない。
樹木葬はどうだろうか? 何となく自然に還るというには人間本来のあり方のようにも思えて、ついつい新聞の折り込みチラシに目が行ってしまうが、正直ここでもそれなりの費用がかかると記されていて、どうやら既存の墓を所有している身からすると、そんな簡単な話ではなさそうだ。
じゃぁ散骨はどうだろうか? 散骨も海や山に還るという意味では同じような気持ちを抱かせてくれるものの、手続きはそう容易いものではない様子だし、敢えて散骨などを選択するというのもそのあり方についてどう思うかが肝要かもしれない。でもやはりイメージはできない。
故人を弔う気持ちは不変であると結ばれるこのシリーズの記事を読んで、リアルな考えに引き戻されると同時に、何が正解かなんてないので、結局家族でよく話し合うことにはなるんだろうけど、少なくとも自分の意思は伝えられるようになっておきたいなぁと日々思ってしまう。実は先祖を守るという話は当然長期間(長時間)にわたる各家の壮大な物語でもあるんだと。