自分史的なクリッピング史料

記事の面白さは別として、ついつい企業の業績などに関わる経済面を読みその数字に注意がいってしまう。現役時代はそれが当たり前の新聞読みでもあったからだ。ただし、記事の中身の妙味というか、個人的な関心を引き寄せるものには概ね出くわしはてはいない。でも独学をひたすら目指す自分としてはやたらと教育関連の記事には目が惹きつけられてしまう。やはり "受験生" という言葉はこの時期の季語。もう概ね終了したのだろうか。受験を終えた後ではぜひリラックスして欲しいと思いつつ最近の記事から。

2024年2月4日 朝日 富永京子のモジモジ系時評
「筆者の考えは?」本人が解いてみると

立命館大学・准教授、富田京子さんのコラム。この記事の冒頭文、「本を「正しく」読むにはどうすればいいのかと学生からよく聞かれる」というテキストが瞬時に目に入ってしまい興味をひかれ熟読。

「正しく」とは、筆者の主張を的確に捉えるという意味だと考えられると推測されている。次いで思い出が語られる。それは、ある中学入試において自著(おそらく " みんなの「わがまま」入門" だろうか)が出題されたというので、直ちに過去問を買いにいって早速自分で解いてみたところ模範解答とは違い不正解だったという。

でも著者は模範解答を読んで納得したという。そして感動もしたと。入試問題は切り取られた部分的文章であるから、本全体の意図を読み込むことがそもそも難しいという性質を持つ。昨今の政治家の発言の部分的切り取りも同じだろうか。自分は自著の中でそれぞれの語を社会学や社会運動論の概念定義に従って用いたけど、作題者は単語に異なる意味を与えたのではと推測している。こうした要素の一つひとつが「筆者の考え」を広大な世界へと誘っていると記されている。

その高ぶりは、色々な読み手によって、解釈の世界が広がることを不思議な気持ちで受け止めているのが著者である富永さんなのだ。富永さんは、唯一の正解保持者が自分であるとは思っていないようで、書き手の元の意図を離れてテクストの豊かさが広がってもいいじゃないか、と大きな心で捉えている。思想家の特に難しい著書をどう読むのか?という入門書やガイダンス本も出版されているけど、確かに読者がどのように読み、それをどんな展開に持ち込めるのかが問われるべきで、間違いがあったとしても個人の帰結をただただ批判的にみる必要もないとも思う。明らかに多くの他者が思考回路を納得できない場合は仕方がないかもしれないけど・・・。

次に富田さんは、「リヴァイアサンと空気ポンプ」という書籍を題材にあげている。空気ポンプを通じた実験により知識を生み出した科学者ボイルと、実験という営みそのものに疑いを持った哲学者ホッブスの論争を分析した科学史。著者らは「実験という行為の客観性や正当性は、当時の科学者集団のありようや、科学者と政治的権威との関係といった要因に規定されると指摘したとある。

要は科学的知識の正しさもまた、特定の社会的背景のもとで形成されるということだと。この本の存在を知った時、富永さんは衝撃を受けたことを記憶していると。受験とは作題者の正しさの積み上げだろうけど、問いにはそれぞれの理解があっても良いというもの。こうした作題者の意図や理解をくんでこそが本来の受験の様子だ。でも子供達には、自由な発想でなぜ自分はそう考えたのか?といった探求力(おもしろ力)を試して欲しいし、今後は例え中学受験であっても短文的な自論を展開させるような記述問題の方が良いのではないかと思う。

受験の場合に自由論の自己展開だと採点に時間を要し合否判定の速報性が失われる懸念もあるのも確か。それは学校側の都合でもあるし、なんとか工夫して欲しいと思う(例えば問題数を減らすなど)。社会に出れば解答が用意されていない課題に取り組むのがメインになるし、普段の学校生活や友人関係においても様々な課題が突発的に出てくる。

科学的イコール再現性とついつい主張しがちなビジネス・ルールを将来的に打破して欲しいし、安直に自由な発想を誇張するつもりはないけど、オーバーコンプライアンス的な活動の中に、自由な発想というのは育つのだろうかと疑問を抱きながらここ最近は自粛した自分とアイデァを枯渇させてしまった自分に苛立ちを覚えたことも事実だから。

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