自分史的なクリッピング史料

グッドルーザーという言葉はもう死語になってしまったのだろうか。世の中これまで、「勝ち組」「負け組」という棲み分けが当たり前のように行われてきたような気もする。でも負けた、勝ったというのは特に競技スポーツでは結果として現れてしまうので、どうしてもその結果のみで判断しがちなのも世の常だろうか。もっと長い目でみてその判断を自分自身ですればいいんじゃないかなぁ。そんな話を読んでみた新聞掲載記事がある。

2008年11月28日 日経 フットボールの熱源 グッドルーザーの精神

サッカーの隆盛はJリーグが発足していまもその熱源は途絶えることなく続いているのだろうか。無論、日本代表選手に選出されたり、プロになっただけでも凄いと思う一方で、そうした選手ですらすべての人がその後のセカンドキャリアでの苦労話が報じられたりと、長い目でみればアスリートは、最後は身体能力の限界と共に終焉を迎えるのであるから、やはり選手期間においてメンタルの醸成が大事になるのだろうか。

この記事の掲載当時、今の日本の選手はグッドルーザーの精神を忘れてしまっているのではないか?と問題提起で始まる。敗戦後のふてくされやねぎらいの言葉への無反応など、そうした選手の態度に気になると続いている。一つの負けが全否定につながる訳でもないし、要は心の持ちよう、心構えの問題だと記している。

グッドルーザーはグッドウイナーにつながるし、グッドウイナーは敗者への敬意を忘れない。相手があってこそ試合も成立する訳だし、相対的に比較の対象になるのも至極当然だから、両者(勝者、敗者)における気持ちの持ちようが大事。

でも競技スポーツのみならず、現代社会では、格差社会が広がっていると揶揄される機会が多い。むしろ、アスリートの試合後インタビューでは、相手への敬意を言葉にする選手が多いのも事実。けど、オリンピックなどで敗者に回ってしまった選手が「期待に応えられず申し訳ない」と言葉を発することもままあるし、そういう意味では周囲の雰囲気がグッドルーザーを阻むケースもあるのではないだろうか。

季節的には受験のシーズンでもある。大学受験のみならず、これから首都圏では中学受験も始まる。皆が第一希望校に進める訳ではないけど、頑張った子どもの成功を願う親の気持ちも普遍的。自分も何とか愚息を志望校に入学させられたらと考えていた昔が思い出される。でもその後の関与は一切せず、在学中は大丈夫かな?と思いつつ、本人任せにしていたが、何とか社会人になっているし今を生きている感じも受け取れる。

まあ競技でも勉強でも一時の判断で負の荷物を必要以上に背負わせることをしないでいいんじゃないかという雰囲気を周囲で醸し出すので十分かなと思う。どうしてもこのように記すときれいごとに思われることもままあるけどでも唯一人生の先行者として振り返ると、そんなのは長い目で見た時に判断すればよいとしか言えない。その一時ではベストを尽くせば少なくとも本人の満足感や充足感が得られるのであれば、そしてそれを周囲と共有できるのであれば、という空気なんだろうなぁと常々思う。

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