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インクルーシブ教育と差別偏見

これはわたしが9月頃書いたレポートである。なかなかいい文章だなと見返して思ったのでここに残しておく。


わたしがインクルーシブ教育の考え方において最も興味を持ったのは「差別」「偏見」「比較」といった要素を取り払っていくという点である。わたしは高校二年生の冬から高校卒業まで自身の精神疾患に苦しんだ経験があり、当事者として差別や偏見、比較を感じていたのでより興味深く感じた。当初は部活動でのみ症状がでていたが、顧問の先生方が症状の対処に慣れていたこともあり落ち着いて対処をしてくれていたことに加え、事情を説明することで少しずつ周りの部員が私の困りごとを理解してくれたこともあり差別や偏見を感じることはあまりなかった。加えて、部活動で副部長を務めていたこともあり演奏技術のみならず部活動の運営という形で認めてもらえる場所があったので自分でも他者比較をしすぎずに過ごすことが出来ていた。しかし、さまざまな不安が混ざり合うことで状態は悪化し続け学校生活にも支障をきたすこととなった。「差別」や「偏見」を強く感じたのはこの頃からだ。めまいや過呼吸から授業を受けることが難しく、毎時間と言っていいほど保健室と教室の往復を繰り返した。クラスメイトに事情を説明することも考えたが、伝えたところで理解しようとしてくれる部員ほどわたしに関心を持っている人がいたわけではないうえ、自分で傷口を見せられるほどの強さが当時の自分にはなく、「なぜか学期の途中からたくさん遅刻や早退をする人」になってしまった。そんな中で「授業はちゃんとうけたほうがいいよ」と言われたことがある。もちろんそのクラスメイトに悪気があったわけではないのはわかっていたけれど、そんな言葉をまっすぐ受け取れる強さはなく、「わたしってさぼって見えているのだな」と思ったのを強く覚えている。高校3年生に進級してクラスメイトが変わり担任も変わりどんどん腫物扱いが加速した。話しかけてくれる人は減り、遠目で見られていて少し避けられている感覚もあった。わたしはその時、いつも通り接してくれる人とそうでない人は何が違うのだろうと考えた。やさしさとか慈しみとかそういう概念ではなく、知識と姿勢だと気づいた。例えば、薬一つとっても顧問の先生と担任の先生では大きく差があった。顧問の先生は同意を取ったうえで処方されている薬について調べて症状や副作用について理解を深めてくれた。一方で担任の先生は「このような副作用があるのでご迷惑をおかけするかもしれません」と伝えても「詳しくないので」と一蹴されてしまった。全員が全員わかってくれるわけでないのも、全員にわかってもらおうと思ったこともないが、学級担任である以上は最低限伝えることは耳に入れてほしいと思った。夏休みの進路三者面談では「日東駒専はギリですけどその下なら娘さんでもいけるんじゃないですか?」と言われて面談が5分で終わったこともある。これが腫物扱い、差別か、と実感した。その時、人は知らないもの、大多数と異なるもの、手のかかるものに差別をしたり、偏見をもってしまうのだと知った。2022年度から再び高校の保健体育の授業で精神疾患が取り扱われている。わたしはこの動きが必ず「差別」「偏見」「比較」を減らすきっかけになると考えている。一方でこのような授業を受けた高校生たちが社会にでて、社会のマジョリティーとなるまでにはまだまだ時間がかかるのが現実である。それまで「差別」をされ続け、「偏見」の目でみられ、“普通”と自分を「比較」し続けなくてはならないのだろうか。具体的にどのような方法をとって知識を普及させるのかについてはまだ検討の余地があるが、可及的速やかに精神疾患に対する知識を身に着け、「差別」や「偏見」をなくしていく必要性を感じる。ただ当事者としてつらい思いをしたというだけでなく、疾患の当事者自身や家族をはじめとする周囲の人間に知識があることは医療への早急なアクセスが見込めるため最悪の事態を防ぐ手立てともなる。精神疾患は誰にでもなる可能性があり、過労問題が取り上げられる昨今とくに注意していかなくてはならない。教育者、人を育て送り出していくものとして小手先の技術だけでなく人生に役立つ教育を実践するべきだと私は考える。

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