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【鎌倉】鎌倉のやぐら

 やぐらとは鎌倉を取り巻く丘や山々を掘って作られた横穴の総称です。岩倉、谷戸倉、谷津倉などが訛ったものとか、中世鎌倉での洞窟や岩穴を意味する言葉であったという説があります。
 一般的には方形に削られた玄室や羨道からなり、梵字や仏像の壁画があるものや五輪塔や宝篋印塔が置かれているものなどさまざまな種類があります。
 現在確認されているもので千基以上あり、埋もれてしまっているものを含め、鎌倉市内には2千基以上のやぐらがあると言われています。

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お塔の窪やぐら

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 写真右側のやぐらがお塔の窪やぐらです。鎌倉で最古のやぐらだといわれています。
 中にはかなり風化した多宝塔が安置されており、これは最後の得宗である北条高時の慰霊のためのものといわれています。 左側のやぐらには石仏が納められていました。


朱垂木やぐら(しゅたるきやぐら)

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 やぐらの正面奥には舟形の後背の浮き彫りがあり、近寄ると唐草模様のような曲線の線彫りを確認することができます。
 すぐ左側の壁面には四角い枠のような形があり、その中に板碑のようなものが彫られています。入口近くの壁面にはいくつかの四角い穴が空いていて、かつては扉がつけられていた名残が見られます。
 右隣のやぐらの入口にも同じように四角い穴があるので、こちらにも扉がつけられていたのでしょう。 朱垂木やぐらと右隣のやぐらは中で繋がっています。
 朱垂木やぐらには龕などの納骨穴は見当たりません。ここは埋葬するためのやぐらではなく、このやぐら群の儀式を行う場であったのではないかといわれています。


三浦一族の墓

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 三浦一族は、北条氏との対立のすえ北条時頼とその外祖父安達景盛に攻めいれられ、宝治元年(1247年)六月五日、源頼朝の法華堂にて主だったもの276名、一族郎党500余名が自害しました。
 頼朝法華堂の東に連なる一角にひっそりとあるやぐらが、その自害した三浦一族の墓だといわれています。現在も五輪塔や石塔、そして供養のための卒塔婆が立てかけられています。


明月院やぐら

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 明月院の境内にある鎌倉で最大級のやぐらには、釈迦如来と多宝如来、そして十六羅漢の磨崖仏がやぐらの壁一面に彫られていて「羅漢洞」ともよばれています。
 このやぐらは豪族の山ノ内経俊が、平治の乱で戦死した父須藤刑部大輔俊道(すどうぎょうぶだゆうとしみち)の菩提を弔うために作ったと伝えられています。


北条政子と源実朝の墓

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 壽福寺境内にはたくさんのやぐらがあり、現在も墓地として使われています。 その中には北条政子の墓と源実朝の墓といわれるやぐらがあり、その中にはそれぞれしっかりと形をとどめている鎌倉時代の五輪塔が安置されています。
 新編鎌倉志には実朝のやぐらのことを“唐草やぐら”や“絵かきやぐら”と書かれており今でも文様らしきものが見られるそうですがよく分かりませんでした。
 北条政子も実朝も頼朝が父義朝のために建立した勝長寿院に埋葬されているため、壽福寺のやぐらは供養塔だとのことです。


瓜ヶ谷やぐら群

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 葛原ヶ岡ハイキングコースの途中を入ったところの崖に、市指定史跡の瓜ヶ谷やぐら群があります。
 このやぐら群は五穴からなり、一番左の一号穴は幅4.7m、奥行き7m、高さ1.9mの大きなもので、中央に等身大の地蔵像が置かれていることから「地蔵やぐら」とも呼ばれています。 奥壁には大きな磨崖仏や五輪塔などが立体的に彫られています。二号穴と三号穴にも五輪塔の浮き彫りがあり、鎌倉のやぐらの中では壁面彫刻の多いやぐら群といわれています。
 中央にある大きな地蔵菩薩の磨崖仏には、よく見ると色彩が残されている部分があるそうです。
 壁奥にも如来像と思われる大きな磨崖仏があり、その両脇に龕があり、右奥角には大きな五輪塔が掘り出されています。
 左壁には龕が1基ですが、右壁には龕が4基あり、地面より1mほど上に地蔵菩薩立像や神像などの彫刻が並び、入口に一番近くには鳥居の彫刻もあります。


唐糸やぐら(からいとやぐら)


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 この唐糸やぐらは御伽草「唐糸草子」にゆかりのあるやぐらです。
 木曽義仲の命により頼朝に近づき動向を探っていた唐糸は、頼朝が義仲暗殺を企てていることを知り頼朝を殺害しようとして捕らえられてしまい、このやぐらに幽閉されてしまいます。
 唐糸の娘の万寿姫は八幡宮で奉納の舞を舞い、頼朝にたいそう気に入られ「何でも褒美を与える」と言われました。
 そこで万寿姫は母である唐糸を解放してほしいと願ったため、唐糸は解放されて万寿姫とともに鎌倉を去ったということです。


西瓜ヶ谷 十四やぐら


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 瓜ヶ谷やぐらの向かいにある西瓜ヶ谷の少し下ったあたりに、やぐらの森と呼ばれる国有地があります。木の根をたよりに斜面を登り平場を左へ行くとすぐに階段があり、それを上がるとすぐ数穴のやぐらが現れます。
 一番大きいやぐらには、14基の浮き彫りの五輪塔があるために“十四やぐら”と呼ばれているとのことです。
 やぐらは整備されてはいますが、そこへたどり着くまでにいくつもの蜘蛛の巣がはっていてめったに人が訪れることがないようでした。今まで様々なやぐらを見てきましたが、ここが一番背筋がぞっとするようなところでした。


日月やぐら(じつげつやぐら)


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 釈迦堂切通より西側の尾根に数穴のやぐらがあり、その中のひとつが日月(じつげつ)やぐらです。
 やぐらの壁に掘られている納骨穴が日輪のものと、日輪を二重に掘って上弦の月のような形になっているものがあるために日月やぐらと言われています。以前このやぐらは人骨と泥で埋まっていたのですが、鎌倉学園の生徒によってきれいに整備されたとのことです。
 日月やぐらの並びにも数穴のやぐらがあり、五輪塔がおさめられていました。


まんだら堂やぐら群


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 名越切通に隣接するまんだら堂やぐら群は、鎌倉市と逗子市にまたがっており、その大半が逗子市にあるために史跡の整備は逗子市が主体となって行っています。
 このやぐら群は小規模で単純な構造をしているものが多いのですが、保存状態も良く150穴以上あることが確認されています。五輪塔も多く置かれているのですが、元の場所から動かされたものが多いとのことです。
まんだら堂跡に入り最初の広い空間の突き当たりの崖をよく見ると、やぐらの階層が4段もありました。下の写真では3段までしか確認できませんが、向かって左上の方にもう一段存在します。
 また他のところでは、やぐらとやぐらがつながっていたり、出口が崖のこちら側と向こう側に抜けるものがありました。
 整備が行き届いているからか、今まで見てきたやぐらと比べて、不思議と明るい雰囲気のあるやぐら群でした。


百八やぐら


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 覚園寺の少し手前から鷲峰山(じゅぶせん)に向かうハイキングコースを登っていくと、右手の崖上に大規模なやぐら群が現れます。これが百八やぐら群と呼ばれるもので、ここではほぼ全部のやぐらの形態を見ることができるそうです。
 百八やぐらの名の由来は、「煩悩の数」や「たくさんある」などからこう呼ばれるようになったといわれています。
 現在発見されているものは177穴ほどあるそうですが、分かりにくいところや立ち入り禁止の場所もあるので、この日見ることができたのはそのほんの一部のやぐらだけでした。


相馬次郎師常の墓


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 岩舟地蔵堂から浄光明寺方面に100mほど行くと左に入る道があり、その正面に相馬師常の墓のやぐらがあります。この辺りは浄光明寺の裏側にあたり、周囲にはあわせて13穴のやぐらがあり「相馬師常墓やぐら群」と称されます。
 このやぐらの玄室内には、大きな龕(がん、棺のこと)があり、その前には宝篋印塔と一石五輪塔が置かれているそうですが玄室内は暗くその様子を伺うことはできませんでした。
 保存状態が良く、被葬者がはっきりわかっているため資料的価値が高いやぐらであるということです。
 浄光明寺の本堂裏の切岸には大きなやぐらが4つあり、そのうちの一番左にあるやぐらは相馬次郎師常のやぐら群の一つに通じているということでした。現在本堂側は資材により塞がれ、反対側も入れないように塞がれているそうです。


タチンダイやぐら


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 鎌倉駅西口から市役所通りをひたすら行き、3つのトンネルを越えたところに北条氏常盤亭跡があります。115,033.28平方メートルというかなり広大な土地で、昭和 52年に行われた発掘調査では門柱跡や法華堂跡などの建物跡ややぐら群などが発見され、翌年には国の史跡に指定されました。
 バス通りと同じ高さに広い草地が広がっているのですが、その草地の脇に細い道があり、一段高い草地へと続いています。一段高くなったところもかなり広さがあり、その一番奥の崖には“タチンダイ”というやぐら群があります。



※鎌倉のやぐらの詳細については、とほとほ道中記をご覧ください。


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