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Crayon Angels

彼女がいなくなってから泣いてばかりいた僕だったが仕事の調子としては上向きつつあった。

もし彼女がいたら、僕の仕事のやり方に反対したかもしれない。目先のチャンスに囚われず自分のやりたいことをやるべきだと、きっとあの子は言うだろう。少し言い争いになるかもしれない。本当にやりたいことより名が売れることを選んだのは、やっぱりこの道で食べていきたい、何者にもならずに終われない、という気持ちがあったからだった。

君の意見に耳を傾けずに突き進む僕を、あの頃の君はどんな顔で見つめていただろう。

とにかく目の前のことをひとつずつ、必死に、丁寧に、求められたことを、自分の我を出さず、とは言え自分の名前が表に出る以上、恥ずかしいのは嫌だから、自分なりに格好いいと思える音を作っていくとそれなりに売れた。
運も味方してくれたと思う。世間に見つけてもらうきっかけさえあれば、長きに渡るくすぶりから容易に抜け出られるくらい真摯に音楽と向き合って来たつもりだ。
「いつでも売れる準備はできている」
という僕の言葉に、一緒にいた頃の彼女は
「そう思うよ」
と、優しく静かに頷いた。
自分が本来やりたかった音ではないにせよ、バンドの関係者も、聴いてくれる人たちも自分を必要としてくれるようになった。ようやく認められるようになったのだ。

テレビCMやYouTubeの広告では僕らの作った音楽が流れた。君は何処かで聴いてくれているだろうか。

与えられたからには、そりゃ真剣にやるにはやるにはやるよ。ただバンドが目指しているのはそもそも小手先の音楽で、こんな上っ面ではやがて行き詰まりを見せると考えているのは、関係者の中で僕一人だけだった。ことあるごとに仲間に訴えた。僕の声は届かない。
あの子は最初からこうなることを分かっていた。だから一緒にいる時、渋い顔をしたのだ。
「それは本当にやりたいことなの?」
「でも今までで一番、近いところにいるんだ。注目してもらえる。こんなことは一度もなかった。やりたいことをやっていたら誰も見向きもされなかった。まったく売れなかった。まっ、たく! だよ。それに今のバンドでも自分のやりたいことを全然できないわけじゃない。求められたことを自分なりの音楽に落とし込んでる。恥ずかしいことはしていない。そ、そりゃちょっとは恥ずかしいかもしれない。昔から自分のこと知っている人は、なんでこんな音楽やってるんだろうって思うとか、がっかりするかもしれない。でも、これはこれで勉強になってる。他人の要望を形にしているのだからね。形にしつつ、ちゃんと聴ける人が聴いたら、ちょっと変な音楽だって分かってもらえるような作り方をしているよ。大丈夫。楽しくないわけじゃない。ライブに出るとやっぱり楽しい。少しの人数より、大勢の人の前でやりたい。どれだけ良い音楽を作っても、誰も聴いてくれないのが続くなら、この波に乗っかりたいんだ。この船に乗ろうと思う。折角のチャンスをものにしたい」
「あのバンドには心がないよ」
「分かってる」
「暫くはおもしろがられるかもしれないけど」
「分かってる」
「苦しくならないかな」
「それでも」
「そう」
彼女は立ち上がって台所に行ってしまった。

今は登り調子だが遠からず翳っていく。
分かりながらも今尚進んで行く僕を、君はどんな風に思うかな。

全国ツアーを回ると車の移動ばかりだから、自分で運転していても、誰かに運転してもらっても、思い出すのは相も変わらず彼女のことばかり。
地方で美味しいものを食べると、あの子に食べさせてあげたらどんな顔をするんだろうと考えた。金沢のおでん、福岡の屋台の豚骨ラーメン、広島の焼きそばの入っているお好み焼き、北海道の回転寿司。
あの子の地元にもライブでよく行った。あの子と一緒に行った郊外のラーメン屋に足を伸ばして昔を思い出したり、喫茶店に入ってモーニングを頼み、あの子と一緒に来れたらどんなに楽しいだろうと思いながら茹で卵の殻を剥いた。
ロックフェスのバックヤードの食べ物は、会場によってはとても充実していて美味しいから、おにぎりとか、唐揚げとか、食い意地の張ったあの子はきっときらきらと瞳を輝かせ、連れてきてくれた僕に深々と頭を下げ、夢中になって食べるだろう。

僕のそばにはいつも見えない彼女がいた。
しかしどれだけ考えたところで現実のあの子は僕の元には戻らない。分かってる。

あの子がいる時、僕の人生はあの子のものだった。あの子のいなくなった、計り知れない大きな空洞を音楽で埋めていくのが、僕の生きる意味となった。
「空洞です」
僕は一人呟いてみた。
あの子の笑い声が聞こえ、笑顔が見えたが幻想だ。
誰もいない部屋に僕の声が響き、幻につられた僕の微笑みが取り残された。

ところで目下の問題のひとつは、自分の表現したい音楽は周りにも世の中にも必要とされないという、初めから分かりきっていることだった。
このバンドを続けていたからこそ見れた景色、できた縁もたしかにあった。けれど不本意なことに向かい続けられるほど、バンドのメンバーの音楽に対する愛は誠実とは思えない。単純に「売れればいい」は違う。不誠実な考えから本当の音楽は生まれない。長くやればいるほど、他の仲間と自分の考え方の溝は深まっていった。愛のない要求。僕の顔は強張る。ステージでは元気いっぱい青春バンドよろしくノリノリのフリをする。そんな僕をみんなが好きだと言う。心に響く音楽だと言ってくれる人もいる。これが? 馬鹿な。
もう、誰かに本当の自分を分かってほしいと願うことも、理解してくれる人もいなくなってしまった。

一人きりで歩いている。

あるライブの打ち上げの席で、マネージャーが「これ好きなんじゃない?」と聴かせてくれたのはジュディ・シルの『Crayon Angels』だった。
聴いたとたん自分の頬に涙が伝い、それを見た周りが「ヤバい」「情緒不安定だ」とザワついた。
僕はやはりまたあの子を思い出していた。ジュディ・シルの才能に溢れて凛としているけれど儚いところが何処となくあの子と重なった。
音楽が僕の心を解き、あの子といた時の感覚が鮮明に蘇って来た。 
一緒にいたあの頃、あの子の悲しみや切なさをどれほど分かってあげられただろう。あの子が僕のアパートのベランダから静かに景色を眺めている時、ちゃぶ台のところで三角座りしてぼんやりしている時、僕の背中に静かに身を寄せている時、彼女は何を思っていただろう。
「ねえ、あなたって霊感ある?」
あの子は僕に訊ねた。
「いや、ないと思うよ。そういうの全然ない。君は?」
「私もない。守護霊とかっているのかなあ」
「さあ、どうだろう。でも見守ってくれている存在がいるってのはいいよね」
「そう? ずっと見られてるってやだなあ。私、一人エッチばっかりするから、本当にいたらすごく恥ずかしいな」
「そ、そういう発想はなかったなあ」

僕を守ってくれる天使の歌声はわずかに調子外れで、でもそれは僕のせいじゃない。僕の人生が悲しいのは僕のせいじゃない。僕の人生は悪くない。だって、僕の周りは誰も死んでいないし、幸せそうにしている。僕は、求められたことを淡々とこなし、苦しみから目を逸らして、悪いことが起きないように真面目に生きている。僕はもう、自分のために生きなくなりつつある。

僕の人生において、あれほど情熱的に人を愛することはこの先ないだろう。あんなに愛してもだめだったんだ。あの子のいなくなった日々に戻っただけだと自分に言い聞かせ、あの子のいない世界を信じ込もうとした。
僕がその世界で生きる、すなわち真っ当に生きるということは、僕の知るただ一つの光を奪われたということだ。あの子のいない世界は果てしない闇が続いていた。
あの子といた頃、僕は感情がとても豊かで、何気ないことに感動し、永遠を願い、すべてのものに意味があるように思えた。
あの子とベランダから一緒に眺める景色は一人で見るよりとても美しく感じた。あの子が座っている部屋は一人の時よりずっと明るかった。背中から感じるあの子の温もりと柔らかさをいつまでも覚えていようと思った。
あの子と離れてしまうと、僕が作った魔法の指輪は僕の指を緑色に変えて、神秘のばらの花は枯れてしまった。美しい日々は消え、暗闇がゆっくりと悲鳴を上げた。

僕は、僕を癒やすための涙を流さずにはいられなかった。
ああ、僕はやっぱり悲しみの中にいる。
僕は一人きりだが、いつも君を感じている。
本当を言えば、今でも君を待っている。
思うに現実は目に見えるとおりではない。僕がほんの少しだけ有名になろうとも、僕はあの頃のままだよ。何にも変わっていない。君がいてくれることが一番の願いだった。君を失うくらいなら、音楽さえ捨てられた。
現実の君に会いに行く勇気はないから、君のことをネットで検索して、君の画像を秘密のフォルダにひっそりと保存した。僕と一緒にいた頃とは違う、スーツ姿のビジネスライクな笑顔の君を指で撫でた。
こんなに女々しい、腑抜けな僕を見て、君は何と言うだろう。
はぁ、会いたい。
僕はいつでも待っている。
僕は座って、真実と、君へと繋がる世界の列車を待っている。

いつも見えない君は僕の天使。
調子っぱずれな歌を歌う僕の天使。

そして夢を見たんだ。
君が戻って来てくれて僕に微笑みかけた。
何を意味するだろう?

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