ないものを具現化したくて私は創作をしているのかもしれない
私は小説を書いている。ただし、現在は絶賛スランプ中で全く書けなくなってしまったので、こうしてnoteを綴っている。
小説は賞を受賞してプロデビューするだとか人気が出て書籍化するだとかそのレベルにならない限り、基本的に書いていても何ら得はしないし、褒められもしない。スポーツをしたり様々な資格取得のために勉強でもした方が余程有意義なんじゃないかと常々思っていたりもする。
けれども十年以上、何だかんだで私はずっと書き続けている。(遅筆なので、作品数も分量も年数の割は多くないけれども)
書けなくなってしまった今も常に謎の焦燥感に駆られていて、でも相変わらず執筆できないのでこうしてnoteを記している。
そんな状況の中、そもそもどうして自分は今まで色々な作品を書いてきたんだろうななんてふと考えた。
突き詰めるとその根本にはこういうストーリーが読みたいまたはこういう人物配置やストーリーだと面白そうなのにそういった作品が、自分が求める作品がない→ならば自分で書こう! っていう流れがあるのだろうなと思う。
すでに既存作がたくさんあるのなら、それらを読めばいい。
けれど存在しないものは自分で書くしかない。
思えば二次創作に関しては、私が書き始めた10年以上前の頃は恋愛要素のあるCP作品か夢小説ばかりで、原作準拠のものが全然存在しなくて、だから原作の延長線上になり得そうな作品が見たくて、そんな感じの作品ばかりを書いていて周囲から浮いていた。(ここ数年は作品が数える程しか存在しない公式CPに関するものを書くことが多いのですが、それも結局のところないから自分で創作していると言える)
オリジナル作品に関しても、例えば今から十年ぐらい前とかは異常に病み系ばかり書いていたのだけれども、それは巷で溢れているのは狂愛される側の視点のものばかりかつ狂愛っていう一種の溺愛とホラー感を受けることに主眼を置いていて、病んでいる側(狂愛する側)の視点かつ狂愛するっていう特定の誰かに対する一途で激し過ぎる情動がどのようなものかを味わいたいという私のニーズとはズレていたからだったような気がしている。
もしかしたら自分の需要を満たすかつそれを他者と共有したかったから小説という形にしていたのかもしれない。
そんなことをつらつらと考えたのでした。
あと、もしかしたら
自分の需要と世間のニーズを合致させること
これが私が創作活動で評価されるために重要なキーワードになるのではないかと思ったのでした。
もっとも、そもそも小説をただ書ければいいのか? それともそれが認められる必要もあるのか? その辺も突き詰めていく必要がある気もしているのですが。
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