雑踏でかき消される位ならせめて叫んでおけばよかった【短編小説】
だから渋谷のハチ公前で待ち合わせなんて、嫌だったんだ。
どこを見回しても、誰もがおしゃれで少し気取っていて、丁寧に髪の毛をスタイリング剤で整えて、雑誌に掲載されていそうな清潔な服を身につけている。自分の2年前に買った地元のイオンの白いTシャツが、見た目以上に黄ばんで見える。アディダスの履きなれたクタクタの靴も、ああ、少しは磨いてくるんだった。
まだ間に合うかな。そう思って、カバンの奥底でカサカサになった除菌シートを取り出して、靴の白い部分を磨いてみる。すっかり乾いたそれが、役に立つことはついぞなかった。せめて、この帰り道に涙がでそうだったときのために、取っておくんだった。
「アキラくん」
ゆい先輩の透き通った声が、頭上から降り注いだ。薄汚れたアディダスから視線を上げると、ゆい先輩のキャップのビビッドな黄色がバチンと目を刺激した。
「おまたせ」
全然待っていないです。今、来ました。
僕は慌てて立ち上がり、除菌シートをジーパンのポケットに突っ込んでなかったことにする。
「ほんと? じゃあいこっか」
ゆい先輩は歩き出した。初めて見る私服姿をまじまじと見つめる暇もなく、日本で最も人類が行き来すると言われている交差点の中に彼女は吸い込まれていく。待ってください、の声を上げることも、はぐれないように、と彼女の小さな手を握る隙もない。余裕もなければ勇気もない。
「大丈夫?」
時折、ゆい先輩は長くて白いスカートをひらめかせながらそう言って振り返った。大丈夫です、と僕が答えないうちに、彼女はヒールをかき鳴らしてもう次の一歩を踏み出していく。
「渋谷に行ったことある?」
部活終わり。僕がエプロンを畳んでいると、ゆい先輩は言った。
高校の料理研究部の中でただひとり1年生である僕は、みんなの憧れの存在である3年生のゆい先輩に個別で話しかけられる未来なんて、想像したことがなかった。だから、そのとき起こった「ゆい先輩に話しかけられる」という特殊イベントが、なにかのバグなのではないかと、にわかに信じられずにいた。
あの。えと。その。
僕自身にバグが生じている間に、ゆい先輩は「行ってみようよ。LINE交換しよ」と実にスマートな流れでスマホを取り出した。
僕のLINEに、はじめて家族以外の女性の連絡先が登録された。
「9月1日、11時。渋谷のハチ公前に集合!」
まだ、ゆい先輩からきたLINEはその一通だけだ。
「すっごい、おいしいんだって。そのクレープ。しかもクレープなら学校でもできそうじゃない?文化祭の出し物の参考にしようよ」
今回の目的は文化祭に料理研究部として出すクレープらしかった。彼女を追いかける渋谷の街並みの中で、僕ははじめてそれを知った。
でもどうして声をかけられたのが、他にいる女性の4人の先輩じゃなく僕だったのかは、わからない。
クレープ屋さんは、若い女性グループやカップルが10人ほど列をなしていた。なるほど、流行っているというのはこういうことを言うらしい。
ゆい先輩の目をまともに見れないまま、彼女の最近の話……
飼っているトイプードルが爪切りで暴れて先輩が手首を少し切ってしまったこととか、帰り道に寄ったコンビニの店員がナンパしてきてしつこかったからもうあそこには二度と行かない、とか。そんな話に返事もろくにできないうちに、ようやく順番が回ってくる。ゆい先輩は看板メニューの苺クリームブリュレ生クリームのせを注文した。
「ブリュレにするには、ちょっと学校では難しいかもね。でもさ、おいしそうだからコレにしちゃった!」
ゆい先輩はいたずらっぽく笑った。目的は本当はなんでもよかったのかもしれない。
じゃあ、なんで先輩はここにいるんだろう。僕を隣にたずさえて。
「すっごいかわいいね。今からどこに行くの?」
ピアスを両耳あわせて一体いくつつけているのかわからない男性店員が、先輩を見て言った。
「あー、カラオケ……とか?」
「ええ、いいね。合流しちゃおうかな」
「あはは。けっこうです~」
僕のツナマヨコーンクレープをそそくさと受け取って、いこ、とゆい先輩は僕にささやいた。またきてねえ。懲りない男性の声が後ろから追いかけてくる。
「あっちで座って食べよ!……あ、カラオケ? うそうそ、いかないよ。急にカラオケってアキラくん、いやでしょ」
確かに嫌だった。誰かの前で歌うのも、彼女のきっと明るく楽しい曲のチョイスも、彼女とこの都会の密室で、たったふたりきりになってしまうことも。
―――本当はどうにかしてしまいたいのではないか?
僕の心の中にわいてくる感情は、本当に僕のものなんだろうか。僕という意気地なしの人間から、こんな感情が湧き上がってくることがはたしてあるだろうか。
わからない。僕には。
今の僕には身に余る感情。抱くことすらおこがましいもの。
わけもわからずゆい先輩のうしろについて、渋谷の街をぐるぐると徘徊した。クレープ屋さんをはしごして、それぞれふたつずつのクレープで腹を満たした頃に僕らはまた、ハチ公前に戻った。
駅に向かうとき、ラブホテルの看板が立ちならぶ路地裏に入り込んでしまって、僕らは小さくなって早足で歩いた。
「やば。ここ、そういう雰囲気じゃんね! いこいこ!」
努めて明るく、先輩はそう言った。彼女はその瞬間は、けして振り返らなかった。そりゃそうだ。ただでさえ僕と並んでいることは恥ずかしいだろうに。
「今日はありがとうね。クレープはまた、学校で考えよ」
今日の調査の振り返りも早々に、先輩はハチ公を前にしてそう言った。手元の時計を見ると、最初にハチ公前で彼女を見つめ目をやられてから、2時間と10分が経過していた。10時間くらいにも感じたし、5分で終わろうとしているようにも思える、彼女とのふたりの時間。キャップのまぶしいビビッドについにこの目が慣れることもなく、僕はろくに彼女の瞳を見つめることもできなかった。
「やっぱりさ。思ったの………私」
急に、華奢な先輩の指先が目の前にせまってきて、思わず目を閉じた。僕の目にかかった前髪をかきあげて、うんうん、と彼女はうなった。
「アキラくん、すっごく、かわいいよ。かわいいのに、もったいないなぁ。ほんとに。お化粧もしていないのに、こんなにまつげも長くって。お肌もきれい。眉毛の形も鼻筋も……すっごく、きれいで……」
―――ねえ。もっと、笑ってみて。
その艶やかな声に導かれるように、そっと僕は視線を上げた。
彼女の顔が、今度はくっきりと、よく見えた。茶色くて濁りの無い瞳。チークで染まったほんのりオレンジの頬。クレープでも落ちないリップで濡れた赤い赤い、口元。
ゆい先輩のセリフはいったい、誰が用意したんだろう。
僕は夢みたいな心地の中でぼんやりと考えた。
女子高のマドンナがこうして、いつもの女子高ではない渋谷の街の中で、かつてその忠誠心を称えられ銅像にまでなった犬の前で、この僕に何を言っているのか。
わからない。僕には笑えない。先輩のようには。
「まぁ……いいけどね。そんな顔も」
ふと、僕のおでこになにかが触れた。
見間違いでなければ。夢でないのであれば。おそらくは、先輩の唇が。その生暖かい感触をしっとりと、僕のせまい額に残した。
僕は、まじまじと先輩を見つめた。
「あはは、大丈夫。誰も見てないよ、渋谷の若者のことなんてさ」
じゃあまたね。
彼女はそう言って、渋谷駅ハチ公前改札口へと消えていった。ぬるい感情と残り香を僕の額ににじませて。
先輩の言う通りだ。街はなにも変わらない。雑踏は静まらず、人々はまた交差し合い、ハチ公は動かない。
でも今。僕の心は渋谷にはない。跡形もなく消え去った。
心があったはずのその場所では、先の見えない、見たこともない感情が渦を巻き、もだえはじめている。
僕は明日にでも化粧を始めるかもしれないし、今日先輩の手をとる勇気が出なかった自分に家で涙するかもしれない。あまりの今日の不甲斐なさに奮起して、来週先輩に会ったときに「ずっと憧れでした」なんて言おうとして言えなくて、やっぱり家に帰って泣いているかもしれない。
未来は見えない。
けれどもう少しだけ、僕は雑踏の中で夢をみたい。
「先輩に向かって微笑む力をください」
そっと、そばにいたハチ公にささやいた。返事はなかった。
「ははは。まあ。当たり前だよね。ごめんね」
バカみたいだ。この意気地なしめ。
僕は自嘲しながら、彼のそばを後にした。
さっきよりもさらにかさついた除菌シートが、ポケットの中で擦れた。
忘れんじゃねえぞ、とでも言うように。
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