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ザッハトルテを知らなかったあの日は帰らない|ショートショート
「ザッハ?トルテ?……って、なんですか」
「え、ああ、お菓子! お菓子の名前! なんか、おしゃれなヤツ! 今度買ってきてあげるから!」
美郷先輩はいつも、僕が知りたいことをなあなあにして、はぐらかして。いつも最後までその答えを教えてはくれない。
僕は彼女の口から「なんかおしゃれ」だというその答えを求め返す時間が惜しくて、手元のスマートフォンで『ザッハトルテ どんな食べ物』と調べる。
ザッハトルテは、フランツ・ザッハーが創作し、オーストリアにある彼の『ホテル・ザッハー』および洋菓子店であるデメルが提供するトルテに類する菓子である。古典的なチョコレートケーキの一種
僕はトップ画面に出てきたウィキペディアの答えを、さも自分が導き出したかのような気持ちで一字一句読み上げる。
職場の昼休みはあっという間に残り5分を過ぎ、みんなが少しけだるそうにしながら、午後の仕事の準備を始めだしていた。
誰にでもなく、空虚に向かって笑顔を向ける人。
「あいうえおかきくけこ……」
大きな声で、発生練習をしながら歩く人。
「島屋くん、また、調べてるし。まじめだねえ」
僕ではなくスマートフォンが導き出したこの答えを、彼女は物珍しそうに聞いていた。すでに同僚たちは「お弁当洗わなきゃ」なんて言いながら給湯室に引き上げていって、休憩所には僕と彼女しか残っていなかった。
「へえ。でも、私も由来は知らなかったなあ。島屋くんといると、なんでもかんでも調べてくれるから、いろんなことを知れていいよね」
彼女がそう言って、小さな小さな黄色いお弁当箱の蓋を丁寧に締めるその手を、ばれない程度に横目で見つめた。
その華奢な左手薬指には。
シンプルで細身な銀色の指輪が光っている。
僕が知りたいことなんて、本当はたかが知れている。
それでも、気になったことをふと調べてしまうのは、もはや自分には抗えない無情な習性なのだ。
───あなたは、仕方がない子よ。だからこそ、かわいいの。
母は、僕によくそうつぶやいた。
僕が、小学生の授業参観で先生の話を聞かずに廊下に出たときも。
中学生のときにクラスの友人に消しゴムと教科書と三角定規を投げつけて職員室に呼ばれた日も。
高校生のときに、都内の名門私立を第一志望として進路希望調査に迷いなく記入した夜も。
仕方ない。
仕方ないわよね。
そう言って。
僕のこと、思いっきり、抱きしめたよね。
ねえお母さん。
仕方がない子って。
どういう意味、なの?
「仕方がない子」は、不満足ではあるが、あきらめるほかない状況にある子どもを指して使われる表現です
ウィキペディアよりも。
お母さんよりも。
最近の僕は、AIの方が正しいことを言っていると思う。
だから。
このAIの解答だって、きっとこの世の最適解なのだと思ってる。
僕は。
僕は。
この、コールセンターで一位の成績をおさめても。
一番、会社の利益に貢献していても。
上司に「次も期待している」って肩に手を置かれても。
───島屋さんって、まじでコミュニケーションはできないよね。
───なに考えてるのか。わっかんない。
───ちょっとさ、不気味だよね。
会話のついでに零れ落ちたような。
そんな、ただ単に隣に座っている人の言葉だけで。
いなくなりたく、なる。
じゃあさ、こんなの。
こんなの、意味ないじゃん。
お母さんに聞いても。
AIに聞いても。
誰が書き溜めたのかわかんないウィキペディアに頼っても。
意味。ないじゃん。
「ねえねえ」
職場からの帰り道。
都内の無意味なイルミネーションが激しい冬の帰り道で、美郷先輩が僕の行く手を遮る。
美郷先輩は、僕の正面ではなく、左斜め前から。
僕の硬くなりがちな表情を確認しながらゆっくりと、声をかけてくる。
「島屋くん」
美郷先輩のスマホの画面が、すっと音もなく、僕の視界を遮る。
「知ってた? ザッハトルテって、家でも作れるんだって」
美郷先輩の、長い黒髪が、僕の視界を凌駕する。
ザッハトルテみたいに、真っ黒でつややかな、その髪。
そう言ったら。
美郷先輩に、怒られてしまうだろうか。
「来月になったら。いっしょに。……つくろうよ。
し・ま・や・さ・ん。
……の、旦那さん」
美郷先輩は。
そう言って、僕の鼻先をかすめるようにして、黒髪をひるがえした。
僕は。
僕は。
「……はい。……島屋美郷、さん……」
僕は。
ただただ。
そう言いながら、彼女の指が紡いだその青いマフラーに顔をうずめて、隠れるように笑った。
本当は泣きたいくらいだった。
でも、泣くよりも。
愛しい。
うれしい。
その思いが、僕のほっぺたをそうっとひっぱった気がした。
それは、まだ誰にも知られてはいけないほころび。
AIも。
ウィキペディアも。
同僚の誰も知らなくっていい。
僕と、美郷先輩だけが。
その答えを、知ることができる。
ザッハトルテの意味を知った
ふたりのその先の、未来の話。
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