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教科の使命

 今の学校に校長として赴任してきて最初に感じたのは「覇気がない」ということでした。「元気がない」というのとはまた少し違うのです。学校目標に「生きる力の育成」を掲げているけれども、その「生きる力」にとても課題があると感じました。彼らのコミュニケーションを見ていて、中学校を卒業して、いろいろな人と「うまく」折り合いをつけながら、本当によりよく生きていけるのだろうかと不安に感じたのでした。


 国語という教科の使命がまさにそこにあることはよくわかっているつもりだったのですが、いざ授業となるとそんなこととは切り離して「そつなく1時間の授業を組み立てる」ことで自分は満足してきたような気がするのです。朗読にはある程度自信があったし、授業規律はしっかり保てているという自負もあったのですが、今振り返ってみると「国語という教科の使命」を果たしてきたとは言えなかったような気がして恥ずかしいです。


 自分が中学生の頃から(きっとそれ以前から)教科書に載り続けている『走れメロス』も、何度となく授業をしてきましたが、一つのテーマについてグループで話し合わせたり、創作をさせたり、発表させたりという活動をしてきたことはありませんでした。そういった活動の必要性もあまり感じたことがなかったのです。


 今、自分のことは棚にあげて、若い先生がいろいろなチャレンジをすることを応援する側にまわっています。若い先生から授業の相談を受けて『走れメロス』をあらためて読みかえしてみると、新たな気づきがたくさん生まれてきます。私がやってきたような場面ごとに切り刻んで読解するような授業では得られないことのほうが文学教材には多いのです。その視点にたって、メロスの心情曲線をグループで話し合って模造紙に描き、それを使って全員の前で発表をさせるというこの先生の授業は、あらためて学ばせていただくことが多かったのでした。

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 小学校での教科担任制導入が叫ばれているけれど自分にはよくわかりません。ただ、中学生になってからの教科担任制の意味は大きいと思います。国語なら国語という教科の本質を語ることからはじめ、しっかり先を見通して授業を作るということが大切なのだと思います。10年間授業をしていないけれど、今ならもう少しましな授業ができるのでしょうか。

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