音楽に触れていたいの

 2020年4月、私はアーバンギャルドに出会った。筋肉少女帯の大槻ケンヂさんがYouTubeで配信している「オケミュー!オーケンの、ミュージシャンみんなどうしてる?」のアーバンギャルドのゲスト回がきっかけで彼らの音楽を聴き始めた。

 アーバンギャルドの音楽の魅力はメロディーがとにかくポップで明るいところと、歌詞と音のハマりがいいところ。私が初めて聴いた彼らのアルバムは「TOKYOPOP」で、時代の流れを汲んだ音作りをしているのだと思ったのが一番最初の印象だった。「ももいろクロニクル(REIWA RAP ver.)」の《君の病気はなおらない だけど僕らは生きてく》というフレーズに頭を撃ち抜かれるような心地がした。その率直な言葉と耳に残るメロディーは確実に私の心に命中した。今はスマホがあればストリーミング配信で目的の作品を聴くことが出来るため、ファンになりたての私のような人間には非常にありがたい。自分が思っていたより急速にファンになり居ても立ってもいられず「水玉自伝」を手に取った。

 これはファン歴わずかひと月の私のささやかな記録です。

 私が音楽を好きな理由。それは音楽が人の心から生まれるものであるからだと、私は思う。音楽を通して人生を見つめるのが私は好きなのだ。とは言っても、日頃から常にそういう聴き方をしている訳ではないけれど。ティーンエイジャーの頃、心の拠り所として音楽を聴いていたのが影響しているかもしれない。

 私は色々あって高校を中退している。高校を中退してから初めての就職をするまでの間、日々ぼんやりと生きること/死ぬことについて考えていたことがあった。まだ何者でもないのに、やたらと人生について考えていた。その頃書いていた文章は、今の私には書けないのでブログの一部をここに載せてみたい。

待ち焦がれた雨足の下、これを綴る。

人は歳の数だけ季節を見るもの。

されど、目の前の景色に目も呉れずに日々を過ごす者もいる。

何を考えても、ちっぽけにしか思えないことがある。
世界の真理も、自分自身が持つ思想でさえも。

『自分とは何か』

これは究極の問いであり、人を迷わせる。
これを問うなら永遠の迷いを手に入れたも同然。

迷いと諦めと絶望と。

辿る先にあるものは?

終わりと始まりを繰り返して、行き着く先は?

根底を見つめようと静かにしていると世界は濁りなく、この目に映る。

その時間を如何にして保つか。

今見ているものは自分?世界?

けれども、この状態で見えるのは自分と世界のみ。
見えてる時は確かなものだけれど、邪魔が入れば簡単に見えなくなる。

そして、フラットな精神状態に戻るのには少し時間がかかる。

とうに気づいてる。生きていくしかないんだってこと。
ここから踏み出していけるかどうかが大事なんだ。

ただどう生きていくかがいまいちわからない。
わからないというか、実感がない。

そこんところでずっと立ち往生してる。

いつか同志と手を取り合えたらいいな。

 こういう文章がいくつか当時のブログに残っている。これを書いたのは2010年7月の20歳の私だ。これを書いてから10年の歳月が流れ、私は30歳になった。

 自分は自分でしかないこと、過ごした日々がそのまま自分になること。なんだかんだ悩んでいても人は生きていける。高校を中退していたっていいじゃない、職を探す上で苦労はするけれど。今は小さなスーパーのレジ打ちをしている。時給はほぼ最低賃金だけれど、多くの欲を持たなければそこそこ生きていける。実家住まいだから出来ることかもしれないが、年に何回かは遠征だって出来る。

 話を音楽に戻そう。今のタイミングでアーバンギャルドに出会えてよかったと思う。水玉自伝にはリーダー松永天馬とメインボーカル浜崎容子の出会いや、キーボードおおくぼけいがサポートメンバーから正式メンバーになるまでの経緯などが詳しく記されている。読んでいて強く思ったのは、自分は生身の人間が創り出すものが好きなのだということ。私にとって特に音楽がそうであるということ。「生」のエネルギーに満ちている、私はそういう音楽に触れていたい。

 コロナ禍を経て、今後ライブがどうなって行くのか、現時点ではまだ手探りの状態であると思う。今、私はとてもライブに行きたい。ライブでしか味わうことの出来ない、体の芯に響く音の振動。アーバンギャルドのライブを生で観たい。それまで生きていられるように、気を引き締めて生活を送っていこう。

 最後に。「ノンフィクションソング」や「少女元年」こそがアーバンギャルドの伝えたいメッセージだと思っている。或いはそれが彼らから私が受け取りたいと願うものなのだろう。今日ここから私とアーバンギャルドが共に歩んで行く人生が始まる。

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