山っていいな。

山が呼んでいる。
コロナとの共存も2年目を迎えた2021年の秋のことである。連休も出かけることなく家でのんびり過ごすのが当たり前になっていたある日、山に『行きたい』というよりは、『行かなければ』という、半分使命感のような感情が急に湧いてきた。
今から休みの違う友人を誘うのは難しそうだが、どうしても行きたい。国内外共に一人旅はよくするが、山に関しては仲間としか行ったことがなく、自分にはソロはハードルが高いと思っていた。

そんな私を刺激するように、雑誌やネットを見てても、ソロトレッキングやソロテント、ソロキャンプというワードがやたら目に入ってくる。
大人になり経験を積むと、危険予知能力が高くなる反面、時にそれが行動を起こす足枷になることがある。でも〜、もし〜、だって〜 と、延々と心配事を引っ張り出してきては、行かなくてもいい理由を探し、足踏みしてしまう。気になって仕方がないくせに踏み出せない。そんな時は、それをやり終えてスッキリした自分を思い浮かべる。

よし やはり行こう と決めた。

ソロテント泊デビューの行き先は、自分にとって低過ぎず、高過ぎずなハードルを選ぶことにした。それは北アルプス、上高地から涸沢までの定番ルートだ。仲間となら行ったことあるし、人通りも多く、紅葉まっ盛りの季節である。

ソロは日程を柔軟に設定できるのが良い。誰に合わせるわけでもなく、天気と相談するだけ。その分、直前までキャンセルできるという誘惑もまたあり、めんどくさがりな自分や、臆病な自分が出てきては、行かなくて済む理由を常に探している。しかし今回は台風一過、天気は申し分なさそうだ。

旅行の準備はワクワクするものだが、山行の場合は衣食住を慎重に厳選しなければならず、慣れていないと簡単ではない。持ち運ぶ重さと栄養のバランスを考えて何度もシミュレーションし、スーパーでうろうろして、結局インスタント食品だらけになってしまった。初心者丸出し。

45リットルのバックパックになんとか全て詰め込み、当日の朝7時に新宿バスターミナルを出発。
松本から新島々は、この夏に起こった豪雨災害のため、いつもなら電車で通過するところもバスで乗り換える必要があり結構大変であった。上高地に着く頃には疲れてしまい、こんな時も友人がいたら楽しめるのに、と弱気のスタート。

13時過ぎに上高地バスターミナルに到着し、ここから初日のキャンプ地、徳沢まで二時間歩く。
晴天の日曜日のため、たくさんの人とすれ違う。街のように人が多いと挨拶は少なくなりがちだが、たまに「こんにちは〜」と声をかけてもらうと、孤独が和らぎやはり嬉しい。

徳沢に着くと多くのテントが並んでいる。
なんとなくソワソワして去年と同じ場所にテントを張ることにしたが、隣の人と入り口を向かい合わせにしてしまった。後から来た私が気を遣うべきだったのに、隣の男性はその後静かに家の向きを変えて、ペグを打ち直していた。謝ることもできず なんだか申し訳ないことをした。うーん どうも自分の行動がまだぎこちない。

こうして初ソロテント泊がスタート。緊張しているのか、ご飯の味をあまり美味しく感じなかった。お茶を飲んで歯磨きを終える頃にようやく少し落ち着いてきた。

去年寒くて眠れなかった教訓を活かしてシュラフカバーを持ってきたら大正解。寝てる間は終始ぽかぽか。回を重ねるごとに篩にかけられた相棒道具だけを持っていくのはレベルアップを感じて楽しい。

真夜中にトイレに起きると、木々の間から瞬く星。流れ星の音が聞こえてきそうだった。

迎えた朝は、雲ひとつない快晴。
せっかく建てたこの家を畳んで、またそれを背負って登らなければいけないと思うと、またもや怠惰なもう一人の自分が ここで二泊にしたら快適なんじゃない?と囁く。いやいや、これ以上に好条件があるだろうか。体調だって、緊張で寝不足なくせに至って元気だ。

さあ行こうと気合いを入れ、7時半に出発。
不思議なことに、歩き出してる時が一番気持ちが落ち着く。じっとしていると、この先どうなるのかという不安と期待でソワソワする。

一式背負いながら歩くと挨拶する余裕が無いが、すれ違い様に挨拶されるとやはり元気をもらう。止まって道を譲ってくれたり、「ゆっくりでいいよ、気をつけていってらっしゃいね」等、何気ない一言がソロの私に孤独ではない安心感をくれる。そして言葉を交わさずとも、同じようにソロで頑張る人を見かけては勇気付けられる。下界ではそれぞれ違う肩書きを背負う人間なのに、山の中ではバックパックを背負い同じように頑張る同士である。

本谷橋を過ぎると急登の始まりだ。
重荷を背負っているので、すれ違い様にバランスを崩さぬように注意し、谷側ではなく山側を歩く。以前細い巻道で落ちた教訓である。
きつくても、景色が変わるので飽きない。
やがてガレ場を過ぎれば、いよいよ涸沢カールが見えてきた。「ヒュッテが見えてからが長いのよねぇ」と、後から来たおば様の呟きにうなづく。
見上げるたびに屏風絵のようなパノラマが広がり、色付きも増してゆく。

11時30分に涸沢に到着。やはり程よい達成感のコースだ。前日よりも落ち着いて、挙動不審になることなく場所選び、家を立てる。トイレに行きやすい通り沿いの、岩場ではなく平らな場所を確保したので、敷板のレンタルもしなくて済みそうだ。

テントの中でようやくゴロンとする。自宅を出発してから初めて、心が穏やかに満たされていく感じがあった。気持ちにも山あり谷ありの中で歩いてきたが、思い描いていた場所にようやく着いた。お疲れ!自分!
この充実感はテントで何もしない時間をも楽しくさせる。
体を拭いて、服を着替えると、気持ちが更にスッキリした。身だしなみとは重要なものだ。こうなるとどんどん前向きになり、見るもの感じるものが自分のために用意してくれたような気になってくる。
迷い、不安、期待、疲労、体調、思考。ソロだからこそ、敏感に変化を感じる。

ここから翌朝までは、ご褒美の連続だった。

紅葉に染まる穂高連邦を眺めながら飲むお茶。日が暮れた後の山々のシルエットと、カラフルなテントの明かり。
夜中に起き、テントのジッパーを開けた瞬間に「うんわっ!」と声が出た。すごい星。文字通り、天然プラネタリウムの下で眠っている事実はテント泊の醍醐味である。人も動物も寝静まり、静寂な、気温が最も低くなる時間の、特別な空間。

そこから来る新しい朝と、真っ赤に染まるモルゲンロート。

これだ。この経験。これがしたかった。

やっぱり心の中から湧き上がってきた気持ちは間違いじゃ無かった。本当に来て良かったと心から思った。自分一人で決めて、一人で来たことは、仲間と来た時とは違う達成感があった。この一晩だけで、宇宙と地球の天体ショーと、日本の自然の素晴らしさを全身で味わった気がした。
山の中では、毎日当たり前にこんなショーが繰り返されていること。それを体感したら、素直に、地球に生まれたことを感謝した。

自分で踏み出して得たこの充実感は自分のもの。今この瞬間、この感じ、この気持ちを、忘れるな。忘れまい。

他の登山者と共に、朝焼けに染まる360℃のショーを堪能しながら、優雅にテントを畳んだ。数日前のソワソワしていた自分とは大違いである。

6時半、下り始める。コースタイムは約5時間の道のりだ。
名残惜しい景色を何度も確かめるように振り返りながら歩く。行きとほとんど変わらない重さのザックを背負っていても、心も足取りも軽い。充実感と経験という山からのお土産を全身にいっぱい詰め込んで、来た道を戻る。下りになった瞬間に先輩風を吹かしてなるべく登る人に対して道を譲り、こちらから挨拶する。やはり山は、登りもくだりも両方ありき。

あとは目指すゴール、温泉である。
11時に上高地に到着し、更に上高地温泉ホテルまで歩く。2日前に来た時よりも更に山の色付きが進んでいる。
ホテル前のベンチに座って温泉が開くのを待っていると、予定よりも30分も早く開けてくれた。思わず、もう1人のソロの女性と「ラッキーでしたね」と目を合わせて喜ぶ。私たち2人で貸切の一番風呂だ。3日ぶりのシャワーと温泉、私はこのご褒美のために登ってるのかもしれない。

1人だけど、1人じゃない。そんな初のソロ山行は、自分にとって素晴らしい経験になった。
松本駅の新鮮な立ち食いそばは、疲れた体にすごく染みた。お、、おいしい!

新宿行きのバスが松本を出ると、さっきまで自分がいた山の稜線が遠く夕焼けに照らされていた。

そこにいたのは、行く前に思い描いていた自分の姿だ。

新宿のビル群やネオンの明かりにまたホッとし、家路に着く。

仲間と共感する山行も、ソロも、両方の良さがある。

1人でもやってみる覚悟。そして行動した先には、あたたかい、同じ志を持った人たちとの出会いがあった。

たった三日間。山に行けば人間は生まれ変われる。こうしてまた私は、山に戻っていくのだろう。

ああ、山っていいなぁ。


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